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第十六条 念仏と廻心

本文

一 信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをもをかし、同朋・同侶にもあひて口論をもしては、はかならず廻心すべしといふこと。この条、断悪修善のここちか。

 一向専修のひとにおいては、廻心といふこと、ただひとたびあるべし。その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の知恵をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、廻心とは申し候へ。一切の事に、あしたゆふべに廻心して、往生をとげ候ふべくは、ひとのいのちは、出づる息、入るほどをまたずしてをはることなれば、廻心もせず、柔和・忍辱のおもひにも住せざ らんさきにいのちつきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおはしますべきにや。

 口には、願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきことなり。

 信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころも出でくべし。すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。しかれば念仏も申され候ふ。これ自然なり。わがはからはざるを、自然と申すなり。これすなはち他力にてまします。しかるを、自然といふことの別にあるやうに、われ物しりがほにいふひとの候ふよし、うけたまはる、あさましく候ふ。

意訳

1、信心喜ぶ人々が腹を立て、誤って悪いことをし、また友達と会って口論などした時は、 信心の自然の徳として、必ず廻心して懺悔しなければならない、と主張する人がありますが、これは悪を断じて悟りを開くという気持でしょうか。

2、お念仏をする人々には、廻心ということはただ一回であります。その廻心とは、日頃浄土真宗を知らない人達が、阿弥陀如来のお智慧をいただいて、自力の心では往生できないと知らされ、その心をひるがえして、本願を信じ他力にお任せすることを廻心というのであります。日常の全てのことについて朝に夕べに悪い心が起った時に、廻心しなければ救われないというのであれば、出る息が入るを待たないはげしい無常の世界でありますから、悪い心が起った場合に、廻心する暇もなく、また、柔和な心が起らないままに命終った時には救われないことになって、阿弥陀如来の、必ず摂取して救うというお誓いが空しくなってしまうでしょう。

 その人達は口では本願を信じ、お任せしているとは言いながら、また、心にはどんな悪人でも救いたもう本願のおたすけを疑って、他力にお任せする心が欠けていますので、辺地の方便化土に生まれるのであります。これは最も嘆き悲しむべきことであります。

3、信心をいただいたならば、往生は阿弥陀如来に計らわれて参らせていただくことでありますから、私の計らいではありません。悪い心が起こるにつけても、こんな浅ましいやつをおたすけの本願よといよいよ本願の手強さを思う時に、本願自然の道理で柔和な心が起ってくるのであります。

 全て往生については、賢そうな思いから、凡夫の計らいを混えずして、ただほれぼれと本願の御恩の深いことを常に思い浮べて喜ばせていただくのです。そうするとお念仏も自然に称えられます。これが自然であります。凡夫の計らいを混じえないのが自然ということで、これが即ち他力であります。それなのに自然ということが別にある様に思い、物知り顔に言う人があると聞きますが、まことに浅ましいことであります。

第十六条の異義について

 第十六条は廻心懺悔の異義と先哲は指摘しています。これは、信心喜ぶ人々は腹を立てたり、悪いことをしたり、また念仏する人々の友達の間で口論したりした場合は、信心の道理として自然にその悪い心を反省し、思い返して懺悔しなければならない、そしてこの廻心懺悔することをもって真の信心の行者であるという証(あかし)であって、もしそうでない者は往生できないと主張したものであります。なぜ他力の教えを聞きながら、こんなことを主張したのでしょうか。

 それは信仰と倫理道徳を混同し、倫理的な計らいをもって、他力の教えを聞いたことによるものであります。それは他力のお救いで、悪人目当ての本願とは言いながら、心の底にある倫理的計らいによるものでありましょう。また、この考えが強く表面に出て来たのは念仏滅罪の所で申したように、造悪無碍の考え方に強く影響されたものと思われます。

一、唯円房の批判

 この第十六条の廻心懺悔の異義も、第十四条の念仏滅罪の異義と同じく、専修賢善計の異義の系統に属するものであることは言うまでもありません。またその考え方も、念仏滅罪と廻心懺悔と言葉は違っても全く同じであります。申すまでもなく、これ等の異義者の言葉だけを聞いてみると、信心喜ぶ人々が腹を立てたり悪しざまな心を起したり、友達の間で口論した時は、廻心懺悔しなければならないということは当然すぎる程当然なことで、なぜこれが異義異安として批判されねばならないのかという不審も起ってくるでしょう。唯円房が批判された理由は二つあるようです。

 一つは廻心という言葉の乱用であります。

 宗教用語はあくまで厳密にまた大切に使わなければなりません。日本人は古来より言葉の乱用についてあまり心を配っていないようであります。言葉の乱用は思想の乱れにつながっています。今日他力本願という言葉を乱用、誤用してしばしば問題を起していることについてもよくうなずけます。廻心ということは、浄土真宗では一生にただ一回のことで、それは自力の心をひるがえして、他力にお任せするということで、親鸞聖人はこのことを「雑行を捨てて本願に帰す」と仰せになりました。

 それは凡夫の不完全な自力の計らいを捨てて、完全なるみ仏のお計らいにお任せするということであります。従って私達にとって廻心とはただ一度限りの事であることを、くれぐれも留意しなければなりません。

 だから廻心懺悔とは悪い心が起った場合に、悪かったと反省し、改めるというようなそんな軽い言葉ではありません。

 次に悪い心が起った場合に、反省懺悔して悔い改めることは、信心喜ぶ人々の自然の姿であっても、これをもって救いの証しとしてはならないのです。それはとりもなおさず、廻心懺悔が救いの条件となるからであります。

 廻心懺悔を主張する異義の人々は、これをもって信心喜ぶ人々の救いの証しとしました。
それでは唯円房が指摘されていますように、激しい無常の世界、出る息入るを待たない世界にあって、業縁により腹も立て口論をしつつ、息が終った時にはその人は救われないことになります。

 それはみ仏の摂取不捨の本願にそむく結果になりましょう。この異義の人々の過ちは、信心喜ぶ人々のたしなみを以って救いの条件、証しとした事にあります。よくよく留意すべき事であります。

二、凡夫の救い

 私はこの第十六条を心静かに拝読する時に、国木田独歩の言葉が強く胸に浮びます。独歩がいよいよ臨終近づいた時に、牧師の内村鑑三氏が枕元に座って

「今はただ心静かに罪を懺悔し、神に祈りを捧げなさい。」

と説かれました。独歩は死を前にしていろんな想いが次々乱れ起って到底心静かに祈りを捧げる心のゆとりはありません。

「祈りをと言われても祈る事の出来ないこの私、祈りなくして救われる宗教はなきものか」

との言葉を残して亡くなられたと伝えられています。

 親鸞聖人の宗教は平生の間に本願を信じ、念仏する身に育てられた時に、臨終の良し悪し、また心の乱・不乱は問題なく、娑婆執着の煩悩を燃やしつつも、力無く終る時に、浄土に往生させて頂くのであります。

 数年前、ある宗教雑誌で読んだお話しの中に、こんなことが書いてありました。この方は、小さい時から仏縁が厚く、日曜学校、仏教青年会等にも欠かさず出席されて、その行いは誠に立派であると本山からも度々表彰を受けられました。重い病気にかかり、臨終が近づいた時に、御住職が訪ねて行き

「お前は小さい時から仏縁が厚く、長い間よく仏様の話を聞いてきた身じゃ、今こそお念仏を喜べるかい。」

と問われました。その時、

「苦しうて苦しうてお念仏どころか。」

と言いました。住職が驚いて

「そんな事でどうするか。」

と重ねて言った時に

「苦しいものは苦しいわい。」

と平然としていたそうです。ここに他力自然の救いがあることを見逃してはなりません。他力の救いとはいかなる業縁に会って苦しもうとも、また喜ばれようとも、そんな姿に関係なく救いたもう大悲が、他力自然の救いであります。凡夫のありのままの救い、これを自然法雨とも仰せになり、この他に自然という特別のものがない事をよく知らねばなりません。

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