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第八条 お念仏を頂く心 その一

本文

一 念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行 ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあら ざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、 行者のためには非行・非善なりと云々。

意訳

1、お念仏は、念仏する人々にとっては、非行でありまた非善と言わなければなりません。それは念仏する人々が我が計らいによって称えるのであれば、我が行と云われますし、また我が力で積む善根功徳であるならば、我が善と言うことが出来ますが、阿弥陀如来の衆生をかならず救うという本願のお力に、もよおされて称うる念仏でありますから、念仏する人には念仏を称うるがままが非行非善であると親鸞聖人は仰せになりました。

問題提起

 法然上人は、念仏には最も優れた徳と、最も易(やす)い徳という勝易二種の徳があることを明らかにして、自力の行を捨てて他力のお念仏に帰することを勧められました。

 親鸞聖人は「大行とは無碍光如来の名を称するなり、この行はもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり」と仰せになって、お念仏には、あらゆる功徳がまどかに具わっているから、大行大善であると説かれて、ひたすら称名念仏を勧められました。しかるに今、念仏は非行非善とお仰せになったのは、どういうお心でしょうか。

一、第八条の背景=他力の念仏に対して

 今から約一千年前、源信和尚によって念仏による浄土に往生する道が明らかにされて以来、その教えは庶民の間に受け入れられて、次第に民衆の中に広がって行きました。

 それより約二百年を経て法然上人が出られました。知恵第一の法然房とうたわれた上人の学徳によって、お念仏はいよいよ深く民衆の胸に浸透し教義体系も確立されて、名実共に念仏宗としての一宗の独立をみるに至りました。関白九条兼実公の願いによって製作された有名な『選択本願念仏集』は,その独立の宣言書であります。

 当時の宗教界に君臨していた南都(奈良)北嶺(比叡山)の仏教はいずれも自力仏教であります。法然上人や親鸞聖人によって他力の念仏が説かれましたが、多くの人々は自力仏教の影響によってこれを素直に受け入れることは出来ず、法然上人や親鸞聖人のお心に反して、知らず知らずのうちに自力念仏に傾いていきました。

 自力の念仏とは、聖道門の人々が厳しい修行によって善根功徳を励んで悟りに近づこうとしたのに対して、お念仏を称え、その功徳によって仏の救いにあづかろうしたのであります。これ等の人々に対して他力念仏とは、称える人にとっては、非行非善であると、その本質を明らかにされたのであります。

二、他力の風向

親鸞聖人が最も力を注ぎ苦心されたのは、せっかく法然上人によって明らかにされた他力のお念仏を、当時の多くの人々が自力の計らいによって半自力、半他力の念仏と受け取り法然上人のお心をくらましている姿を見て、これらの人々を如何にして純粋の他力念仏に導き入れるかにありました。

 半自力、半他力の念仏とは私達が仏の救いを求めて一生懸命お念仏をすれば、それに応じて仏の力が加えられる。即ち私が念仏する努力(自力)に対して仏の力(他力)を恵まれて、そこに救われて行くと言う考え方であります。他力の念仏とはかならず救うとのみ仏の呼び声に素直に信順し、おまかせして、その救われた喜びがお陰様と口にあらわれたお念仏であります。

 人間はもともと自力の心、即ち自分の力をあてたよりにして役に立てようとする計いが非常に強いのであります。これを定散自力の心と説かれています。この定散自力の心が、他力の教えを聞きながらも知らずのうちに自力の念仏に陥らしめるのであります。

 親鸞聖人はこの過ちを正す為に念仏は、行者の為には非行非善なりときっぱり仰せになりました。もともとお念仏とは法蔵菩薩によって選び取られた、衆生がお浄土に往生する行であります。従ってこのお念仏は勝易の二徳を具え、世に越え優れた大行大善であります。それを念仏する人々にとっては、非行非善であると説かれました。

 私達の方にはみじんの力も加えることもなく、何等の計らいも交えず、ただ本願のお救いを仰ぐ外ありません。したがってこれを行者にとっては非行非善と仰せになりました。

 私達がみじんの力も加えることなく計らいを交えずお救いを仰ぐことは念仏だけに限らず信心に於ても同じであります。したがって念仏する人々の信心を他力信心と云われるのであります。み仏の衆生をかならず救う本願の力、即ち南無阿弥陀仏の名号が私の胸にとどいたのが信心であり、その名号が口に表れたのがお念仏であります。

 これはかならず救うといふ呼び声が聞こえ、安心したことが信心であって、救われる喜びがお陰様と口に現われたのがお念仏であります。

 それは言葉を変えて言えば信じた力もあてにせず、称えた念仏もたよりにしない。ただ両手離してホレボレと本願を仰ぐの他ないということです。

 私はここまで書いた時に、こんな話を思い浮かべます。美濃の国の信仰の厚い、ある同行のことであります。お彼岸に数人の友達とお寺参りをしました。その途中でトラックに跳ねられて病院に運び込まれました。

 診断の結果外傷は小さいけれども頭を強く打たれているので内出血がひどく手の施しようもない。後二時間程の命、一時間もすれば意識がもうろうとなるから、今の内に大事な遺言があればそれだけは聞いて置きなさいとのこと、連れだって来た友達も非常に驚いて、色々相談の結果、外の人と違って長い間御法義を聞いた人だからなまじ気休めを言うよりもむしろ本当の事を言ってあげた方がよかろうと、そこで一番近い親類の人が枕元に来て

「お前は外の者と違って若い頃から長い間御法義を聞いた身じゃ、お前の命は後二時間、一時間もすれば意識はもうろうとなるそうだが、かねての覚悟は大丈夫だろうの。」

この話をひとごとと聞いているうちはよいが我が身にひき当てて、考えて見た時にどうでしょうか……。その時このお同行は、

「何を言うのだ、一人で参るお浄土なら覚悟もいろうが、親に連れられて参るお浄土に何の覚悟がいるものか。」

と言われたそうであります。

 私はこのお話の中にあれで助かろうか、これで救われようかという自力の計いをすっきり離れて、ほれぼれと両手を離して本願を仰ぐ姿に心打たれました。親鸞聖人が念仏は行者の為には非行非善と言われたお言葉を正に身をもって示されたことに心打たれます。

三、念仏に導かれて

 念仏は行者の為に非行非善とおさとしになった言葉は言うまでもなく、お念仏は私の生活とは何の関わりもないと言うことではありません。それはホレボレと本願を仰ぎお念仏一つにまかせきった生活であり、私の生活全体がお念仏に導びかれた生活と言われるでしょう。

 では念仏に導かれた生活とは、どんな生活でしょうか。それは煩悩の中に明け暮れしながらも温かいみ仏の光を仰ぎながら心豊かに生きる生活といえましょう。心豊かに生きるとは常に我が身を顧ながら、相手の立場、相手の気持ちになってものを考え、ゆずり合い、労り合いながら明るく生きる生活であります。現代の人々の姿を静かに思う時、誰が言われたか,

「物に栄えて心に滅ぶ」また「豊な生活,貧しい人生」の言葉のようにあの敗戦当時の欠乏した時、日本人の心は物さえ握ればお金さえ持ったらと、物の面だけに心が走りました。

 更にそれに追い撃ちをかけたのが高度経済成長であります。この高度経済成長の歪みの中に豊かな心を見失い、その結果自分自身をかえり見ることを忘れ、人の欠点のみ鋭く追求して自分の欲得の為には親兄弟を踏みにじり、さらに自分の生んだ子供さえ都合が悪ければビニールの袋に入れて駅のロッカーに捨てるという浅ましい姿になりました。それは宗教離れをした現代人の精神的砂漠にさまよう姿に外なりません。ここに私は「現代人よ何処へ行くか」の感がしみじみ致します。

 よく「宗教家よ何をしているか、死んだ人ばかりを相手にせず、またあの世のことばかりを説かずに生きている人を対象として現実のこの社会に、今こそ極楽浄土を築くように努力すべきではないか」と言う言葉が聞かれます。

 そう言わんとしている人の気持ちも解るような気は致しますが、私はこの世に極楽浄土を築くと云うことは天井の星を竹竿で払い落とそうとするようなもので我執煩悩の中に明け暮れしている私には次元が違いますから、とうてい手がおよびません。

 極楽浄土を作るべきだと主張する人々は、人間、及び人生の見方が大へん甘いと思われます。そんなうわついた言葉をやめて、私達人間はしっかり大地に足をふまえて人間らしい社会を作ることに努力すべきであると確信致します。人間らしい人間社会とは先に申しました豊かな心の中に、互いにゆずり合い、いたわり合う明るいなごやかな社会のことであります。

 国連憲章に、戦争は人間の心に始まるとうたわれておりますが、その心に教えのスポットを当て、豊かな心を育てることが宗教の使命であります。本願寺の第二十一世の門主明如上人が全国を御巡回になり京都にお帰りになった時にその感想を、

 み仏の 道の栄ゆる 国々は
  人の心も 素直なりけり  

と詠われました。

 今日、日本人の頭に骨の髄まで浸み込んだ誤まった考えがあります。それは徳川幕府の300年の長きにわたる誤まった政策によるものでありますが、仏様の話とは死んでから先のこと、お寺とは死んだらお世話になる所という考えであります。

 もちろん、過去、現在、未来三世の命の流れを説く仏教は、なくなった方々を厳粛な宗教儀式を持って見送り亡き人を偲んで、そのあとをとむらうと云うことも仏教の大切な役割でありますが、それと共にみ仏の光によっておかげ様と明るく生き抜く道を教えるものこそ、仏の教えであり念仏の光であります。

 親鸞聖人は現在と未来の二つの救いを高くかかげて、未来に仏と救われて行くのは現在、今救われた人であります。現在救われずしてどうして未来に救われるはずがありましょうか。

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