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第七条 念仏者の生き方

本文

一 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。 罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。

意訳

1、本願を信じ念仏しつつ生きる人々には、何ものにもさまたげられない明るい自由の道が開かれています。その理由は、信心喜ぶ人々には天地の神々も心から救い、また仏道修行の妨げをする悪魔や外道(仏教以外の教え)もこれを妨げることは出来ません。またいかなる罪もその報いを感ずることもなく、いろいろな善根功徳も念仏には及びません。

問題提起

 念仏する人々が何ものにもさえぎられない明るい自由の道を行くと仰せになって、天地の神々もこれを敬い、悪魔や外道も妨げることは出来ないと仰せになったお心は、どのへんにあるのでしょうか。

一、第七条の背景=中世の人々の生き方

 二十世紀は科学の時代と言われています。人々の知識も進み、教養も高まって、科学の恩恵によって物は豊かになり、生活も遙かに便利になりました。けれども人間以上の力を持ち人間の運命を左右すると思われる鬼神や、いろいろな悪霊のたたりの恐怖から抜け出ることは出来ません。それは近代科学の建築の粋を誇るビルの屋上に、赤い鳥居の社を祭り、又近代医学を誇る病院についてみても、語呂合せの迷信よりくる四番病棟や四十二号室を省いていることもそれを物語っています。

 また正月三日間は毎年日本の総人口の過半数を占める七千万の人々が、神社仏閣に詣でて、攘災(じようさい)招福(禍を払って幸福を祈る)を祈り、家内安全を願って参拝する人の群をみてもよく頷けます。

 中にはこの為に参拝の途上に交通事故にあって、死傷者が出る等の悲劇さえ起っています。科学がこんなに進んだ現代に於ても、このような実状であります。ましていわんや科学の知識の乏しい七百年前の中世の人々の生き方はと思うと、想像に余りあるものがあります。

 自然現象による天災地変も、鬼神や悪霊のたたりと信じ、恐れ戦(おのの)いて、鬼神に祈りや生けにえを捧げてその心を和げ、あるいは悪霊を鎮めて、そのたたりを逃れようとしました。

 一例をあげますと、日本で人として最初に神に祭られた方は菅原道実公であります。道実公は政敵藤原時平の陰謀により無実の罪にとわれて、九州の太宰府に流され、彼の地で怨みをのんで亡くなりました。たまたまその夏、京の都では激しく雷が鳴り、あちこちに落雷して被害が起こりました。都の人々は、道実公の怨みをのんで死んだ怨霊のしわざと信じ、その怨霊を鎮める為に神に祭ったのであります。

 当時の奈良や比叡の仏教もこうした怨霊を鎮め、鬼神の災いをさける為の祈願祈祷をこととしていました。こうした鬼神や悪霊のたたりを恐れて、不安とおびえの中に生活していた人々は、当然日常生活すべて迷信に支配され、迷信の中に日暮ししておりました。

 例えば日や方角の善し悪しにも心を配り、何事をするにも易や占い等に頼っていました。こうした人々の不安に応えて親鸞聖人はその一切の迷信を打ち破って、人間の自由意志による自由な生き方を力強く宣言されたのであります。これが「念仏者は無碍の一道なり。」のお言葉であります。

二、鮮やかな逆転劇

 歎異抄は今までしばしば指摘しましたように、常識を破り、世を驚かし、人の心を驚かす言葉で綴られています。この第七条もそのように「念仏者は無碍の一道なり」と。即ちお念仏に生きる人々は何ものにもさまたげられない明るい自由な道を行くものであると述べられて、外側と内側よりその理由を明らかにして当時の人々の常識を逆転されました。その外側よりの証(あかし)として、

「天神・地祇も敬服し 魔界・外道も障碍することなし」

と仰せになりました。この心を現世利益和讃と照し合せてうかがいますと、
  
  天神地祇はことごとく
  善鬼神となづけたり
  これらの善神みなともに
  念仏のひとをまもるなり

  願力不思議の信心は
  大菩提心なりければ
  天地にみてる悪鬼神
  みなことごとくおそるなり

のお言葉によって知られますように、本願を信じ念仏する人々を、天地の神々も敬い給い、また仏法の妨げをする魔界外道の悪鬼神はおそれて近寄ることはできないと述べられました。

 これは従来の人々の常識を鮮やかに逆転されたのであります。今までは人々が天地の神々を敬い、その心を和らげて、利益(りやく)を求め、悪鬼神にはさわらぬ神にたたりなしとおそれて近づかないようにと心をくばりました。

 聖人はこれを鮮やかに逆転して、神々が念仏の人を尊敬し給い、悪鬼神は念仏の人をおそれて近寄らないと言うのであります。それは如何なる理由に依るのでしょうか。思うに、真実の前には何人と言えども頭を下げ、悪魔も恐れて避けるのであります。

 お念仏は法蔵菩薩の選び給う唯一の勝法であり、宇宙の真理を磨き尽くされた真の法であります。ここにあらゆる優れた功徳が収められています。蓮如上人は御文章に、

 「それ、南無阿弥陀仏と申す文字(もんじ)は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能(くのう)のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。 」

と仰せになりました。したがってこのお念仏を頂き、お念仏に生かされる人々を、天地の神々も尊敬し、悪魔外道はおそれて近寄らず、妨げることは出来ないのであります。ここに念仏する人々には、何ものにも妨げられない、明るい自由な道が開かれるのであります。

 これについて思い浮かべることは、関西地方には「門徒もの知らず」という言葉があります。門徒とは真宗信徒の代名詞であります。

 私は最初この言葉を、真宗の教えはどんな愚かなものでも妨げとならず、愚かなまま救われて行くのでありますから、真宗の門徒は愚かで物を知らない人が多い、というように解釈しておりました。が実はそうでなくて、先に述べましたように、中世の人々の生活は殆ど、迷信によって支配され、迷信によって振りまわされていました。例えば友引きの日に葬式をしない、結婚式は大安をえらぶ、赤口(しゃくこう)の日には大工は高い所に登らない、或は旅をするにも日の良し悪しや方角をえらぶ等の状態でありました。

 ところが浄土真宗の念仏する人々は、日の良し悪しや方角を気にすることなく、また占い等にも頼らず何ものにも妨げられない自由な生き方をしていました。これを見て、真宗以外の人々が驚きました。

 どだい門徒の者は無茶をする、旅をするにも全然日の良し悪しを問題にせず、また友引きの日でも平気で葬式を出しておる。どうしてあんなことが出来るのか、あれは門徒の者は今日は葬式をしてはいけない日である、、あた旅立ちしてはいけないなどというようなことを知らないから平気であんなことをするのだと言う風に考え、そこから「門徒もの知らず」と言う言葉が生まれたのであります。

 科学が進歩している現代に於ても、迷信に支配され勝ちなのに、科学の知識の乏しい封建時代に於て迷信に振りまわされることなく、明るく自由の道を歩まれた念仏者の生き方は素晴らしいと言わねばなりません。

三、内側よりの証

 親鸞聖人は、念仏の人々は何ものにもさえぎられない自由な道を行くとお述べになって、外側からの証しとして、天地の神々も敬い、護り給い悪鬼神も恐れて近寄らないとお述べになり、次の内側からの証しとして、その罪業も報いを感ずることなく、自力の諸善もはるかに及ばないと仰せになりました。

 私は「罪悪も業報を感ずることあたわず」とのお言葉の中で「感ずる」と言う言葉によく注意しなければならないと思います。およそ善因善果と言う因果の鉄則は仏様と言えども左右することは出来ません。如何に念仏者と言えども、過去世よりの業は誰一人として逃れることは出来ず受けて通らねばなりません。

 ここに業報を感ずることなしと仰せになったのは、念仏によってその報いが消えて現われないということではなく、その報いを受けながら、それにとらわれて振りまわされないということであります。

 およそ私達は、幸福を求め求めて生きております。私達の一生の動きは、幸福を求めての言葉につきるでしょう。こうして幸福を求めて努力しながら、人の世には次々と幸福を妨げるいろんな問題が起って来ます。言い換えれば人生は問題の連続と言えます。

 こうした問題に出合った時に、こんな問題さえ起こらなければ…こんなことさえなければと考えがちであります。しかしここには幸福はありません。なぜなれば、人生は命終わるまで問題がつきまとい、問題の連続だからであります。

 ここでよく考えなければならないことは、起ってくる問題よりもその問題にとらわれ振りまわされている私の心の方に問題があるのではないでしょうか。どんな問題をさらりと受け流し、それに左右されない豊かな心があれば、そう問題にならない筈です。お念仏に生きることはそうした心を恵まれて豊かに生き抜くことであります。この境地は一人一人がみ教えを聞き、み教えを頂く時に、自ずと恵まれるものであります。

 思い返しますと、20数年前、私のお寺の特別講座に中村久子さんが見えました。中村久子さんについては、皆様もよく御承知のことと思いますが、幼少の頃脱疸(だつそ)というおそろしい病気になり、両手両足を切断された方であります。そうしたこの世の生き地獄と思われる業を背負いながら、お念仏の道を心豊かに生き抜かれた方で、日本のヘレンケラーとうたわれた方であります。

 私のお寺の本堂で、たくさんの参詣人を前にして「皆さん、私程幸せ者はありません。」と開口一番言われた時には、私はハッと胸打たれ驚きました。それから昼と晩と翌朝と三席に亘り、自分の歩いた厳しい茨の道と、温かいお念仏の道を諄々と説いていかれて、参詣者一同は、涙と共にこのお話を聞きました。

 三席のお話が終った後で、筆と硯箱を取り寄せ、筆を口に加えて墨痕(ぼっこん)鮮やかに色紙三枚に自作の次の歌を書かれました。

  過ぎし世に 如何なる罪をおかせしや
  拝む手のなき われは悲しき

  手はなくも 足はなくともみ仏の
  袖にくるまる 身はやすきかな
  生かさるる いのちとおとし けさのはる

 この歌については、何の解説もいらないでしょう。己が重い業を背負いつつ、それを越えゆく尊い姿がひたひたと胸に迫るのを感じます。

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