序:利井興弘

大阪の北方を流れる淀川を見下ろす、北摂山系に、ひときわ目立つ山は竜王山である。その中腹の千年杉につつまれたお宮のそばに、彼の生まれた法林寺がある。父も行信教校の千ぱ知恵あったから、兄哲弥君の後に従って彼もまた本校に入学した。最初はあまり目立たなかったが、三年間の本科生を卒業したあたりから、宗乗の研鑽が目立ってきた。七年後の研究科の時には、私は将来行信教校の先生になってもらおう、と心に決めていた。

昭和二十二年、彼は行信教校の幹事であった。その時加藤信朗君がにゅ学してきた。その年の夏休みに帰省した加藤君は、父に「日置の兄さん(故賞雅哲淳)と一緒に入学した人が、今まで研究科に残って勉強しておられるよ。お盆の説教に頼んだらどうか。」との話で、父も「それでは」ということになり依頼した。

加藤君のところは伯父さん(福沢敬信氏)が祖父明朗に長く随行した人であり、その姉の嫁いでいる寺も、行信教校の同輩哲淳君の寺である。「それなら行こうか」と気安く引き受けて九州に旅立った、これが縁であった。年若い青年僧の話には、檀家の人々は一席で感心した。

「お若い方なのに、味わいの深い、よく学問も身に付けておられる」

その時、当時の村長であり総代でもあった安山親之氏が、「病気なさった住職の後は、こんな人に継いでもらはにや」と口説きに口説いたのであった。そこで彼は明信寺に入寺した。

私は先生を一人失ったことになったので、実際がっかりしたことを覚えている。

彼は眼が悪かった。視野はだんだん狭くなり、今では失明同様である。しかし肉眼はほとんど見えないが、心眼はますます冴えてきたのである。「輝くいのち」「輝く讃歌」そして「輝く言葉ー歎異抄の心」の三部作をものにした。私に頂いた手紙の中に、

「第三部”輝くことば”を執筆するにあたり、私自身ためらいを感じた。歎異抄は宗門内外の人たちが立派な書物を書いておられるのに、すでに視力を失い、先哲先輩の書物に目を通せなくなった今日、今になって何を問いかけることがあるかという思いでした。

しかし一面振り返ってみると、私の今まで行ってきた歎異抄の講話は、先哲先輩の書物の中からいいところをつなぎ合わせて話していたに過ぎないことを反省した時に、それが出来なくなった今は、直接私が歎異抄に触れ、そこに感じたところを書くならば、私と同じく脳を持った人々に何かの心の光を与えるのではないかと思いなおし、あえて勇をふるってペンを取った次第です……小学五年の孫が、辿々しい口調で一所懸命歎異抄本文をテープに写してくれたことも嬉しい思い出の一つでした」

この一文ですべてのことはわかる。手紙の中に「同朋有縁の力を借りて」とは書いてあるが、声だけのテープから、これを活字にするまでの努力は、主に節子奥様の仕事であった。彼の願心こうした人々の心を打ったことであろう。

この書は歎異抄を通して出た親鸞聖人の言葉が彼の心眼を通して、胸底の奥にひびいた言葉である。活字を見る、読むのではなく、その胸の底からひびいてくる声を、あなた方は受け取らねばならない。

歎異抄に関しては、数多い本の中で「心眼にふれた歎異抄」は少ない。この本を通して親鸞聖人のお声を、有縁の同行に聞いていただきたいという、ひたむきな私の願いである。

昭和五十七年五月一日
春雨しきりに降る
利井興弘

はじめの言葉:私と歎異抄

「なんぼ他力本願の救いを説く真宗でも、悪人が善人より先に救われる。善人より悪人が目当てだ。そんなはずはない。そんな事を言ってはいけない。」

私が小学校4、5年の頃かと思いますが、年配の青年の間でこんな会話が取り交わされていました。私はそばで聞いていて子供心に、真宗のお説教では確かにそのように説かれているようだが、私にはうまく言えないけれども、それには深い訳があるのではないかと思いました。これが後になって歎異抄第三条の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の心であることを知りました。これが私に歎異抄に心を向けた初めであります。

昭和22二年、不思議な因縁に結ばれて、大阪府茨城市車作、法林寺より鹿児島県日置郡日置村(現在日吉町日置)、明信寺に迎えられました。当時は終戦後まもなくて人心は乱れ、人々は食糧危機、経済的困窮に喘いでいました。お寺もその例外ではありません。

そうした中にやはり伝統はありがたいもので上村重雄、橋口敏武、永田辰馬、宮下清兵衛、増田栄、中野躬好さん等の6人の壮年の方が、なんとはなしにお寺に集まって当時27歳の私を中心にお寺を盛り立てていこうという動きが始まりました。

これを六心会と名付けて毎月集っているうちに会員の中からせっかく集まるんだから仏教の勉強をしよう、という声が出て私が歎異抄の話をすることになりました。

日置村村長安山親之、仏教婦人会の山田セツ、松本静子、本田藤さん等数名の方も参加されました。そのあと次第に人数も増えて、当時小学校の校長であった小寺愛吉先生、夫人の小寺フジエさん、中学校校長酒匂春香先生、小寺校長の後に来られた西田峰二先生、元町長当時助役の星原慶蔵さん、収入役の西牟田一男さん等も加わられ第一章より始まったこの集いも終わるまで約十年の歳月が流れました。

その間私は、妙音院了祥師の歎異抄聞記、金子大栄師の歎異抄講話、歎異抄聞思録、暁烏敏師の歎異抄講話、曽我量深師の歎異抄聴記、本派関係では梅原真隆師の歎異抄講話、瓜生津隆雄師の歎異抄講話、山本仏骨先生の歎異抄のこころ、その他諸先生の講話にも目を通しました。これらの書物の中で利井鮮妙和上の歎異抄講話にひとしお重量感を覚えました。

第二回目の会は昭和40年より47年までかかりました。引き続いて、54年6月までで第3回が終わりました。続いて会員の希望で翌月7月よりまた始め、今第四回を続行中です。

思えば三十数年間歎異抄に取り組んでいることになります。時折、学校を定年退職された先生からよく、

「日置にいる時、校長先生と共に先生のお宅の歎異抄の会に出席しました。今思えば懐かしい思い出になります。」

という言葉を聞くことがあります。そうした関係から、鹿児島教区、仏教壮年会主宰による聞信徒大学で昭和49年より54年まで5年間にわたり講話を担当しました。

また教区内、南薩組西光寺(住職、朝倉昭道氏)、祁答院組信教寺(住職、野崎流行氏)の二ヶ寺で、時を同じくして昭和47年6月より歎異抄講話を始めました。現在は歎異抄に続いて正信偈、蓮如上人御一代聞書を話しています。

私は「輝くいのち」「輝く讃歌」に続いて輝くシリーズの第三部として「輝く言葉:歎異抄の心」を、世に送ろうとしました。

けれども今静かに振り返ってみると「輝くいのち」は平素布教伝道の傍ら、これだけは書き残しておきたいという願いがあり、「輝く讃歌」は、幼少の頃よりお正信偈の意味を知りたいという強い希望がありました。今歎異抄については、

”お前は今これを書いて何を伝えようとするのか。既に読書の視力を失い、そのため新しい試作をすることが不可能になった今日、いろんな学者、文士がそれぞれすぐれたものを描いて世に送っている時、お前は今更何を訴えようとするのか”

という気持ちが動いて、ペンをとることに躊躇しました。しかしこれまでの私の歎異抄の講話を振り返ってみるときに色々な学者、先輩の書を読みその良いところをうまくつぎ合わせて話していたのにすぎないことに気付きました。

失明のため、そうした先輩の指導を得ることができなくなった今日、いろいろ悩みを持つ私が、直接歎異抄の言葉に触れて胸に響いたところを伝えるなえらば、同じ悩みを持つ皆様方の共感を呼び起こして、生きる光が射し、心の支えとなるのではないか、と思い直し、敢えてここに拙いペンをとった次第であります。幸い皆様の温かい理解をいただくならばこよない幸せと存じます。

尚、この書の体裁については読まれる皆様方に、わかりやすく読みやすいようにとの気持ちから歎異抄師訓十条と異義八条に合わせて、十八章として序分、別序、後序にはそれぞれ別に章目をもうけました。従って詳しく申しますと、二十一章になりますが、十八にまとめた事を付記します。また歎異抄は一条一条独立しておりますので、順序にとらわれず章目を見てどこからでも自由に読んでいただけば良いと思います。

1982年(昭和57年)5月

賞雅哲然