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第十五条 信心と成仏

本文

一 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。 この条、もつてのほかのことに候ふ。

 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はま た法花一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。

 来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。

おほよそ今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、なほもつて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行・慧解ともになしといへども、 弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるも のならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれ て、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんとき にこそ、さとりにては候へ。

 この身をもつてさとりをひらくと候ふ なるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八 十随形好をも具足して、説法利益候ふにや。これをこそ、今生にさ とりをひらく本とは申し候へ。

 『和讃』(高僧和讃・七七)にいわく、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光 摂護して ながく生死をへだてける」と候ふば、信心の定まるとき に、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれに候ふをや。

「浄土真宗 には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとなら ひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候しか。

意訳

1、煩悩をかけ目なくそなえた身でありながら阿弥陀如来の本願を信じた者は仏であると主張している人々がありますが、これはもっての外のことと言わねばなりません。

2、この身このままで仏であると説くのは真言密教の根本の教えであって、それは手に印を結び、口に真言を唱え、心に大日如来を念ずる三密の修行によって悟る果報であります。

 眼耳鼻舌身意の六根を清浄にして煩悩の垢をすっかり洗い落すことによって、そこに仏の力が現われると言うのは、法華経による大乗仏教の教えであって、それは身も心も健(やす)らかにする為に身口意誓(ちかい)の四つの修行によって悟る果であります。これは聖道難行の教えであり、根機勝れた人々の修行の道であります。

 この世を終えて未来に浄土に生まれ悟りを開く道は他力浄土門で、それは如来より頂く信心によるのであります。これは易行道であって、劣った凡夫の為の道であり、善人悪人を選ばず、全ての人が救われる法であります。

3、およそこの世で煩悩の悪の障りを断つことは極めて困難なことでありますから、聖道門の真言、法華の道を行ずる出家の人々も、次の生に浄土に生れて、ここで修行して悟りを開こうとされるのであります。いわんや戒律の行を修めることも出来ず智慧の悟りを持たない凡夫が、どうしてこの世で仏に成ることが出来ましょうか。

 しかしながらこうして凡夫も弥陀の願船に乗じて迷いの海を渡り、悟りの浄土の岸に 着いた時には、煩悩の迷いの黒雲は速やかに晴れて、法性の悟りの月は現われ、尽十方無碍光如来、即ち阿弥陀如来と同じ悟りを開いて一切の迷える人々を救うという働きを顕してこそ、仏になったと言われるのであります。

 この身このままで悟りを開くと言う人々は、お釈迦様のようにいろいろな人々に応じて形を現わし、三十二相・八十随形好と言う勝れた姿をもって法を説き人々を利益すると言うのでしょうか。こうした働きをなしてこそ、この世で仏となったといえるのであります。

4、親鸞聖人は高僧和讃に

  金剛堅固の信心の
  定まる時をまちえてぞ
  弥陀の心光摂護して
  ながく生死をへだてける〟 

 と詠われましたが、この心は一度金剛堅固の他力の信心を頂く時に阿弥陀如来の摂取の 光明にいだきとられて、もはや地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上という六つの迷いの世界に帰ることはない故に、永く迷いの世界をへだてることになります。

 このように知ったことを悟ったといい紛らわしたのでしょうか。誠に哀れというべきであります。

 浄土真宗は、此の世で本願を信じ、命終って後に彼の土で悟りを開くのであると恩師法然上人より習い覚えたと、今は亡き親鸞聖人は仰せになりました。

第十五条の異義について

 第十五条は信心決定した者はすでに仏であると一群の人々が主張しました。

 こうした主張はどうして生まれたのでしょうか。文化は高い所から低い所に流れる傾向を持っています。当時の仏教界の主流は、法華経による天台宗(比叡山)、密教による真言宗(高野山)この二つであります。

 それからさまざまな宗派が派生していますが、いずれも即身成仏、娑婆即寂光即ち此身このまま仏であり、この世このまま仏の国であると言う思想であります。

 こうした思想が浄土真宗の中に流れ込んで、いつのまにか信心頂いた者は仏であるという異義が生まれてきました。そうした事を主張した人々の根拠は、唯円房が指摘しておられる様に親鸞聖人の和讃の、

  金剛堅固の信心の
  定まる時をまちえてぞ
  弥陀の心光摂護して
  永く生死をへだてける 高僧和讃

またその他の和讃

  超世の悲願聞きしより
  われらは生死の凡夫かは
  有漏の穢身はかわらねど
  心は浄土にあそぶなり 帖外和讃

  信心よろこぶそのひとを
  如来とひとしとときたまふ
  大信心は仏性なり
  仏性すなわち如来なり 浄土和讃

等の言葉がその根拠になったものと思われます。唯円房の非常に力を尽してつとめられた所は、聖道門の自力の思想が、浄土真宗他力の教えの中に紛れこもうとするのを如何に防いで親鸞聖人の教えを純粋に守ろうとするかにありました。

 唯円房その他の直弟子達の努力にかかわらず、こうした異義は永く真宗の中に紛れ込んで二百年後の蓮如上人の時代にもあったことが知られます。

 蓮如上人当時、一益法門(いちやくほうもん)と呼ばれ、信心頂いた者はすでにこの世で秘かに仏の悟りを開いていると主張し、又自分が仏であるから別に仏像を拝む必要はない、自分を拝んでおればよいのだと言う不拝法門の異義等が行なわれていたことによっても知られます。

一、唯円房の批判

 第十五条に述べられている本願を信じ念仏するものは仏であるという異義は第十条、第十一条と同じ、学問と信仰と混同することによって起こる誓名別執計(せいみょうべつしゅけい)の系統による異義であります。

 この異義は自力聖道門の即身成仏とか娑婆即寂光土の思想の影響を受けて、そうした考え方のもとに、先にあげました親鸞聖人の和讃を読んで、煩悩を持ちつつ本願を信じたものは、自然に仏であると主張しました。

 この主張に対して唯円房は聖道門自力の教えと浄土門他力の教えのけじめを明確にされてそのあやまちを正されました。

 聖道門自力の教えの代表的なものをあげて、真言宗密教の教え、天台宗法華経の教え、その説きぶりには違いはあっても、ともにこの身このままで仏になり、この世このままが、仏の国であると説かれているが、それを実現するには厳しい修行が要請されるのであり、しかもこれらのを修行する人々も、この世ではなかなか修行を成し遂げて仏の悟りを開くのが困難であるから、次の生に浄土に生まれて更に修行を重ねて、遂に仏の悟りを開こうと祈られるのである。聖道門の厳しい修行をする人ですら浄土の往生を願うのに、ましてや煩悩一杯そなえ戒律を守れず、悟りの智恵を持たない凡夫が、どうしてこの世で仏になることが出来ましょうかと批判されたのであります。

二、凡夫のための宗教

 浄土真宗他力の教えは、前にも申しましたが凡夫の為の宗教、即ち煩悩を一杯持ち、迷いの世界にさまよいつつある凡夫を救うという教えであります。

 それは本願を信じお念仏するところに、大悲の願船に乗せられて生死の迷いの海を渡り、悟りの浄土の岸に着いた時に、浄土の自然の働きによって煩悩の黒雲がたちまち晴れて、仏の悟りを開くのであります。ここに一切の苦悩の人々が平等に救われて行く道があります。

 このことを今は亡き親鸞聖人が、浄土真宗はこの世で本願を信じ、彼の浄土に於いて悟りを開くのであると、恩師法然上人から確かにうけたまわったと仰せになったお言葉によっても明らかであります。

 それを異義の人々が

「金剛堅固の信心の
 さだまるときをまちえてぞ
 弥陀の心光摂護して
 ながく生死をへだてける」

等の言葉によって、信心頂いた者は仏になったのであると主張したのであります。

 これは申すまでもなく、信心頂いた者は煩悩を持った凡夫であるけれども、摂取の光明に摂護されているから、六道輪廻の迷いの世界に再び立ち帰らないことを讃えられたのであります。

 また後の

 「超世の悲願聞きしより
  我等は生死の凡夫かは
  有漏の穢身は変らねど
  心は浄土にあそぶなり」

 「信心喜ぶその人を
  如来とひとしとときたまふ
  大信心は仏性なり
  仏性すなわち如来なり」

 の御和讃とともに摂取の光明に摂護されて生きてゆく信心の利益、信心の徳を讃嘆されたのであって、凡夫が仏になったという意味ではありません。つまり浄土真宗は帰るべき彼岸の世界、即ち命の故郷を明らかに知らされて永遠の光を仰ぎつつ心明るく生きる宗教であります。

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