別序の章 上承起下
本文
そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏申さるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人(親鸞)の仰せにあらざる異義どもを近来はおほく仰 せられあうて候ふよし、伝へへうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。
意訳
今静かに古に思いを巡らす時に、鸞聖人がまだ世にまします頃、同じ志をもってはるばる関東から都に足を運び、親鸞聖人にお会いして直接に聖人から教えを受けた人々には、間違った信心の人々はありませんでしたが、これらの人々から教えを受けた老若男女の人は数多くありました。それらの孫弟子の人々の中に聖人のみ教えには似ているが、異なった信心、教えを主張する人々が多くあるように伝え聞きますが、それは全くいわれのないことであり、悲しむべきことであります。
一、上を受けて下を起こす言葉(別序)の心
先にも申しましたように歎異抄は、師訓十条と異義八条がその大綱になっています。即ち唯円房のねらいとされたことは、後の異義八条であります。
聖人没後、直接聖人から教えを受けた人々、即ち直弟子の間には間違った教え、間違った信心(異義異安心)を主張する人はありませんでしたが、直弟子より教えを聞いた人々、即ち孫弟子の数多く人々の中に色々異なった教えを主張する人々が出てきました。それを悲しみ、それを正そうとされたのであります。
しかしその異義異安心を正す尺度がなければなりません。もしそれがなければ水かけ論になります。その尺度として師訓十条を初めにあげられたのであり、当時主張している異義異安心の代表的なもの八つを取りあげて、老いの眼に悲しみの涙を湛(たた)えつつ、早くその異義異安心を離れて、正しい信心、まともな信仰に立ち帰ってくれよ、との願いをかけて書かれたのが異義八条であります。
この別序は上を受けて下を引き起こす(上承起下)の目的を持って書かれました。即ち師訓十条と異義八条の橋渡し的な意味をもっております。
二、異義異安心の起こる理由
親鸞聖人の教えを受けながら、どうして聖人亡き後2、30年してこのような異義異安心が起こったのでしょうか。このことを思う時に親鸞聖人が、自力の仏教から他力の仏教に転入された時の心境が思われます。それを聖人は「雑行を捨てて本願に帰す」と述べられました。これは人間のはからいの不完全さに目覚め、完全なる仏の御はからいに任す、ということであります。
これは言葉を変えて言えば、ゼロの立場に立って本願を仰ぐという事でもあります。それはまた、己れを空しくしてみ仏の仰せや七高僧のお言葉に素直に信順することであります。このことを善導大師は、
「唯信仏語 唯順祖教」
と仰せになりました。ここに初めて美しく他力の信をいただくことが出来るのであります。人間は得手(えて)に法を聞くという傾向をもっています。得手に法を聞くとは、自分に都合の良い所は受け止め、悪い所は聞き流すという事であります。ここに仏法を正しく聞くことのむつかしさがあります。
親鸞聖人より直接教えを聞いた人々は素直に、教えの通りに聞く事ができました。これは全く聖人のお徳であります、けれども孫弟子に至っては、聖人ははやこの世にましまさず、そこに聖人の教えを伝え聞きながら、自己のはからいをもってこれを聞き、理解しようとしました。そこに異義異安心が起こったものと思われます。
三、異義八条の流れ
唯円房は、当時行われている異義異安心の代表的なものを八つ取り上げられましたが、これを大きく分けると二つの系統に分けられると先哲は指摘されておられます。これは後に詳しく述べますが、誓名別執計(せいみょうべつしゅけい)と専修賢善計(せんじゅぜんけい)の二つであります。
この言葉は真宗の学問上で使う専門の言葉でありますので、皆さん方は耳なれないむつかしい言葉と思われるでしょうが、言葉を変えてやさしく申しますと、学問と信仰の混同より起る異安心が誓名別執計であり、道徳と信仰の混同より起る異義異安心が専執賢善計であります。
学問と信仰の混同とは、宗教学者、必ずしも宗教人に非ず、という言葉がありますが、宗教的知識をどんなに身に付けたからと言って、それが必ずしも信仰にはならないのです。信仰とは先に申しましたように、学問や知識を越えた所に開けるものでありますから。
しかし人間は、自分の修めた学問を鼻にかけて誇ろうとする習性があります。そこに知らず知らず学問と信仰を混同してしまい、学問、知識を身に付けたことを、信仰と錯覚するものであります。これを誓名別執計の異義と申します。
また人間は、倫理道徳の行為を誇るあまり、他の人々をさげすむようになる傾向をもっています。それは念仏者は念仏者らしくなければならない、もしそれが出来ないならば真の念仏者と言われず、救いにあずかる事ができないと主張しました。そうして、念仏者の集まる道場に、これこれのことを犯した者はこの道場に入るべからずとか、念仏者はこれこれの事を守らなければならない、と張り紙をしたりしました。
もちろんこうした道徳的倫理的項目を、念仏者の生活の嗜(たしな)みとするならば間違いありませんが、それを救いにかけて、こうした誤ちを犯した者は救われないと言うに至っては、大いなる行き過ぎと言わなければなりません。それは他力の教えを聞きながら知らず知らずのうちに、自力に陥っているのであります。これらを専修賢善計の異義と言われるのであります。詳細は各条に於て述べることに致します。