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真宗通解:『十二礼』柏原祐義

目次:

第一篇 解題
   第一章 題号
   第二章 撰号
   第三章 造意
   第四章 組織
   第五章 大意
   
第二篇 本文
 第一章 総讃礼
 第二章 別讃礼
  第一節 正報
   第一項 摂法身の徳
   第二項 摂衆生の徳
  第二節 依報
   第一項 無畏の土徳
   第二項 不退の土徳
   第三項 結願回向
             以上

第一編 解題

第一章 題号

『十二礼』

【字解】

 

一『十二礼』 十二というのは、七言四句の偈が十二あるのをいい、礼とはこの一偈ごとに「願はくばもろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん」と、帰命礼のこころを示してあるからいうのである。

 

【通解】

 

 龍樹菩薩は阿弥陀仏に帰命する衷心の思いを打ち出して、十二偈の礼讃文をつくられた。これを『十二礼』とみずから名づけられたかは明瞭でないが、ともかく中国の迦才法師が『浄土論』に『十二礼』と名づけてあるから、それによって偈題とするのである。

 なお題号の下の註には『龍樹菩薩讃礼阿弥陀仏文』といい、善導大師は『往生礼讃』にこの全文を出し、『願往生礼讃偈』と名づけ、智昇法師の『集諸経礼讃義』三には『願生礼讃偈』とある。

 

 『十二礼』という名が偈文の数からきたように『願往生礼讃偈』などの文は偈文の内容からきたので、別に矛盾はない。また源信和尚の『往生要集』上にはやはり『十二礼』の名を出し、時には龍樹の偈、あるいは龍樹の讃といっておられる。

 

 浄土宗西山派の堯惠師の『往生礼讃疏』に、十二というのは、昼夜十二時、薬師十二大願、十二因縁などのように、数の満ちたところをいうから、今もそれに倣って十二偈を造られたのであろうといっているが、これだけではまだ菩薩の御意に触れていないようである。

 

 思うに、十二は昼夜を意味し、昼夜十二時は常恒不断を意味するから、菩薩が終日(ひねもす)終夜(よもすがら)、常に念いを西方に懸けられている心情を顕すために、十二偈を造られてのであろう。

 

 これを承けて『正信偈』の龍樹章に、「唯よく常に如来の号を称えて、応に大悲弘誓の恩を報ずべし」といい、『正像末和讃』に「弥陀大悲の誓願を、ふかく信ぜんひとはみな、ねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏をとなふべし」とおおせられたのである。

第二章 選号

禅那崛多三蔵別訳   
龍樹菩薩讃礼阿弥陀仏文

【字解】

 

 禅那崛多三蔵『翻訳名義集』そのほかの僧伝にこの人の名がない。『明蔵目録』などにもこの名の人の翻訳した経論がない。これはおそらく闍那崛多(じゃなくった)(ジュナーナグプタ)のことであろう。徳志と訳す。闍那崛多は犍陀羅国の人で、周の武帝の世に長安に来て、大興禅寺において経論を訳すること三十七部百七十六巻、開皇二十年、七十六才で寂した。

 そのため、古来この『十二礼』は、もっとたくさんある礼讃文から略して別訳したものであろうという説、いや『易行品』弥陀章を別訳したものという説等あるが、いずれも推測の域をでない。確かな証拠はないのである。しかし、察するにこの『十二礼』は『易行品』弥陀章の文意と似通うところがあるから、あるいは弥陀章の別訳であろう。 

 

第三章 造意

 この『十二礼』を『易行品』弥陀章の別訳とすれば、別にあらためて造意を窺う必要はないようである。けれども、龍樹菩薩が阿弥陀仏の御徳を讃歎されるのはどういうことであろうかというと、自ら弥陀の易行他力に帰し、傍らに人に信じさせるためであることは勿論である。それゆえ『易行品』の弥陀章には、幾度も「是の故に我稽首し礼したてまつる」等々述べられて、この『十二礼』には「願求諸衆生、往生安楽国」と述べられたのである。

 菩薩が特に阿弥陀仏に帰命されたことは、重ねていう必要もないが、要するに菩薩の阿弥陀仏への帰命の心が流露したものであること動かし得ない事柄である。
 

第四章 組織

この書の組織を図示すれば以下のようである。

                     ┌─帰礼───────────至心帰命等  
一、総挙讃礼─┼─偈文───────────稽首天人等  
                     └─願生───────────願求諸衆生等
                     ┌─正報─┬ 讃摂法身徳───金色身浄等  
二、別挙讃礼─┤          └ 讃摂衆生徳───無比無垢等  
                     └─依報─┬ 讃不退土徳───彼尊無量等  
                                  └ 讃無畏土徳───彼尊仏説等  
三、結願回向────────────────我説彼尊等  

 十二偈の礼讃のうち、第一礼讃文は、まず大体について阿弥陀仏の御徳をあげて讃礼する旨を述べられたもので、これが帰礼と偈文と願生に分かれる。

 

 第二礼讃文から第十一礼讃文までの十礼讃は、別して事を分けて讃礼する心を述べられる。これが正報讃礼と依報讃礼に分かれる。正報とは自分の業因によって与えられた正しき果報ということで、肉体(からだ)と精神(こころ)をいうのである。依報とは肉体精神の依りどころとなる果報のことで、山川、大地、衣服、飲食などを指すのである。

 

 正報讃礼が二通りに分かれ、初めには摂法身の徳、すなわち多の衆生を教化し、摂めたすけたまう御徳を讃礼しておられる。また依報讃礼も、一度往生すれば更に悪趣に退かない徳と、一切の畏怖なき徳とがあることをほめ讃えられた。

 

 第十二礼讃文は、上の讃礼によって阿弥陀仏から頂いた喜びを一切衆生にも聞かせて、共々に願生したいというこころを挙げて、この書全体の結びとされている。

 偈文は極めて簡単であるけれども、いずれも菩薩が身心を傾倒された至切の声であること忘れて拝読してはならない。

第五章 大意

 題号に『十二礼」といい、『讃礼阿弥陀仏文』といい、『願往生礼讃偈』とあるごとく、この一部は全く阿弥陀仏を礼拝讃歎することを詮わしている。もっとも、礼拝讃歎は至心帰命の信仰の表現(あらわれ)であるから、信仰を離れた単なる礼讃ではないことはもちろんである。

 それゆえ、巻頭には「至心帰命礼西方阿弥陀仏」といい、偈の終わりごとに「願求諸衆生、往生安楽国」と仰せられた。信は一切の中軸である。この信が流露して、礼拝ともなり、讃歎ともなり、供養ともなり、歓喜ともなるのである。この信が一切の行為の根底となる。信なき礼拝はまことの礼拝ではない、信なき讃歎はまことの讃歎ではない。

 従って、いまこの『十二礼』も信心から表現(あらわ)れる礼拝讃歎をあらわすのを以て大意とするのである。
 

第二編 本文 

第一章 総讃礼 

【原文】
稽首天人所恭敬 阿弥陀仙両足尊
在彼微妙安楽国 無量仏子衆囲繞

【書き下し】

(1)至心に西方阿弥陀仏を帰命し礼したてまつる。
天・人に恭敬せられたまふ、阿弥陀仙両足尊に稽首したてまつる。
かの微妙の安楽国にましまして、無量の仏子衆に囲繞せられたまへり。
願はくば諸の衆生と共に安楽国に往生せしめたまへ。                       

 

【意訳】
(1)如来の真実心により、如来の勅命にしたがいながら、心底からなるたよりの思いをもって西方安楽国の御親、阿弥陀仏を礼拝したてまつる。天の衆生や地の生きものが敬い尊びたてまつる阿弥陀仏は、いま彼の妙にうるわしき蓮華の御国にましまして、御弟子なる無量の菩薩衆に囲繞されて、八音の御声さわやかに無礙の法を説かれているその尊きお姿を礼拝したてまつる。願わくばどうぞ、一切の衆生とともに、御親の国に迎えさせ給え。

【語句説明】
・天・人=浄土の聖衆を他方世界に順じて、天とか人と呼ぶのみで、実の天でも人でもない。
・仙=世間を離れ、貪欲なく老いて死なないものを仙という。仏もこの類いであるから仙という。
・両足尊=人の中に在って最も勝れたもの、阿弥陀仏を讃えた呼び方。
・巻五=十五巻のうち第5巻目が易行品。
・仏子衆=仏弟子達。
・囲繞=とりかこむこと。

【余義】

[指方立相]
 この一節により安楽浄土の場所がわかるのであるが、古来阿弥陀仏の浄土が西方にあるということについて、大議論がある。或いはこれを釈尊の方便説であるといい、或いは唯心の弥陀、己身の浄土と唱えて阿弥陀仏も浄土もわが心中にあるといい、或いは娑婆即寂光土といってこの世を離れて西方世界はない等々、議論百出したものである。しかし我が宗は指方立相(方角をさだめ色形を見分けること)の綱格を守って、浄土は現に西方に在りとするのである。

 まず浄土の場所について議論の起こるわけを述べよう。全体これは『大経』のなかに「恢廓広大超勝独明」p26とか「恢廓曠蕩にして、限極すべからず」p28と説き、『浄土論』においても「広大無辺際」p34と説かれておりながら、『大経』には「現在西方」p28と述べてある。即ちもし浄土が恢廓であって無辺際のものならば、ただ西方と限って指すことはできない。それを一方では無辺といい、一方では西方といって全く正反対のことが説いてある。ここに議論は起こるのである。

 

 どうしてこのような説示が起こったのか。これは一切のものを見るとき平等観と差別観との二つの見方があるからである。従って平等観の一面から観るときは浄土穢土という差別がないから、浄土の場所は恢廓広大とか、無辺際とか言わなければならない。

 

 しかしながら、もし差別観の一面から観るときは、証られた仏と迷える凡夫とが明らかに区別されるように、凡夫の迷いの因によってできた娑婆と、仏の証りの因によってできた浄土とは、大いに相違がなければならないことである。これ即ち阿弥陀仏の浄土が、西方十万億土の彼方にあるといわれる訳柄である。たとえば人類という平等観の方向からいえば、西洋の人も東洋の人も同一人類というべきであるが、人種という差別観からみれば、両者の間に大きな異点があるようなものである。

 このように平等と差別との間には大きな相違があるが、しかしその本(もの)体(がら)は一つであって別物ではない。即ち人類の外に人種なく、人種の外に人類を認めることはできないからである。それで如来の浄土も有限の西方説と無限の広大説とは、全く同一物の両面を示されたものというべきである。即ち無限を離れずして有限、有限を離れずして無限であるのである。この二面を示すために『大経』には両種に説明されたのである。

 浄土の説明について、有辺から言うときと、無辺から言うときの二面があるといったが、仏教上にこれを説くにあたって、聖道門の教え方は無辺からこれを試み、浄土門の教え方は有辺からこれを試みる傾向がある。

 

[此土入聖]
 これは外ではない、聖道門はといってこの世で聖者の証りに入る教えであるから、まず平等の理を証って、そののち差別の門に出る方が都合よく、

 

[彼土得生]
 浄土門は彼土得生といって彼の浄土へ参ったのちに証るという教えであるから、初めに差別から引き入れられて、そののち平等の理に入るからである。

 

 前述の如く差別の方面からいえば、浄土・穢土の相違があることは分かるが、しかも十方世界のうちで特に西方を指されたのは何故であるか。これもやはり差別界を中心としての説明であるからである。即ちこの差別の世界では、東はものの発生(うまれ)を意味し、西はものの帰趣を意味している。

 

 例えば日が朝に東山を出でて夕べに西海に没するごときである。阿弥陀仏はこの帰趣を意味した西方を選んで特に安楽世界を建て、私たちの最終の安住処と定められたのである。人生の夕べが来たとき、私たちの識(こころ)は静かに西の方なる御親の国に入る。そこには言いしれぬなつかしさがあるのではないか。

 

 要するに、浄土の方処に関する議論は以上の如くであるが、今一度尅実(ふかいり)していえば私たち迷いの凡夫が到底窺い知れることではない。ただ、西岸上に切なく呼び続けられる御親の呼び声を仰いで信ずべきばかりである。『高僧和讃』曇鸞章に

 

  世俗の君子幸臨し
  勅して浄土のゆゑをとふ
  十方仏国浄土なり
  なにゝよりてか西にある。

 

  鸞師こたへてのたまはく
  我身は智慧あさくして
  いまだ地位にいらざれば
  念力ひとしくおよばれず/『註釈版聖典』p582

 智慧浅く念力及ばぬものは、漫然と十方これ浄土と教えられても念ずることはできない。それよりも西方を一定に示してくだされた方が都合がよい。それで西方を方処とされたのである。

第二章 別讃礼
第一節 正報         
第一項 摂法身の徳

【原文】
(2)
金色身浄如山王 奢摩他行如象歩
両目浄若青蓮華 故我頂礼弥陀尊

(3)
面善円浄如満月 威光猶如千日月
声如天鼓倶翅羅 故我頂礼弥陀尊

【書き下し文】
(2)金色の身、浄くして、山王のごとし。奢摩他の行は、象の歩むがごとし。        
両目の浄きこと、青蓮華のごとし。ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。
願はくば諸の衆生と共に安楽国に往生せしめたまへ。 

 

(3)面よく円浄なること、満月のごとし。威光はなほ、千の日月のごとし。
声は、天鼓と倶翅羅のごとし。ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。
願はくば諸の衆生と共に安楽国に往生せしめたまへ。

【意訳】
(2)紫磨黄金の浄くましますことは、ちょうど須弥山が世界の山に比べるものがないようなもので、禅定の静かにましますこと、あたかも大象がしとしと歩むようである。また御眼は青蓮華のように涼やかであらせられる。どうしてこの、御仏を礼せずにおられようか。願わくば、どうぞ、世界の生きものといっしょに、彼の安楽の御国に生まれさせ給え。  

(3)お顔の浄く円かに輝かせ給うことは、満月のようであり、気高き御姿の光明は百千の日月が一時に照り輝くようである。また御声の爽やかさは忉利天上の鼓の如く、倶翅羅鳥の声のようである。南無阿弥陀仏。どうぞ、私を、なべての衆生とともに御許へ呼び寄せたまえ。

【語句説明】
・山王=須弥山。 
・奢摩他=止、寂静と訳す。心を乱さず静かにすること。禅定のこと。
・円浄=清く円満なこと。 
・天鼓=忉利天の善法堂の前にある太鼓。打たなくてもおのずと鳴って、美しい響きを聞かせる。    
・倶翅羅=梵語コーキラの音写。好声鳥と漢訳。声の美しい鳥。
 

第二項 摂衆生の徳  

【原文】
(4)
観音頂戴冠中住 種種妙相宝荘厳
能伏外道魔驕慢 故我頂礼弥陀尊

(5)
無比無垢広清浄 衆徳皎潔如虚空
所作利益得自在 故我頂礼弥陀尊

(6)
十方名聞菩薩衆 無量諸魔常讃歎
為諸衆生願力住 故我頂礼弥陀尊

(7)
金底宝間池生華 善根所成妙台座
於彼座上如山王 故我頂礼弥陀尊

(8)
十方所来諸仏子 顕現神通至安楽
瞻仰尊顔常恭敬 故我頂礼弥陀尊

(9)
諸有無常無我等 亦如水月電影露
為衆説法無名字 故我頂礼弥陀尊

【書き下し文】
(4)観音頂戴の冠中に住したまふ。種々の妙相、宝をもつて荘厳せり。  
よく外道と魔との驕慢を伏す。ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。
願はくば諸の衆生と共に安楽国に往生せしめたまへ。

 

(5)無比・無垢にして、広く清浄なり。衆徳皎潔なること虚空のごとし。
所作の利益に自在を得たまへり。ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。
願はくば諸の衆生と共に安楽国に往生せしめたまへ。

 

(6)十方に名の聞ゆる菩薩衆、無量の諸魔、つねに讃歎す。
もろもろの衆生のために、願力をもつて住したまふ。
ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。
願はくば諸の衆生と共に安楽国に往生せしめたまへ。

 

(7)金を底とし、宝を間へたる池に生ぜる華、善根の成ぜるところの妙台座あり。
かの座の上にして山王のごとし。
ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。
願はくば諸の衆生と共に安楽国に往生せしめたまへ。

 

(8)十方より来れるところのもろもろの仏子、神通を顕現して安楽に至り、
尊顔を瞻仰してつねに恭敬す。ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。
願はくば諸の衆生と共に安楽国に往生せしめたまへ。

 

(9)諸有は無常・無我等なり。また水月・電(いなずま)の影・露のごとし。
衆のために法を説くに名字なし。ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。  
願はくば諸の衆生と共に安楽国に往生せしめたまへ。

 

【意訳】
(4)阿弥陀仏が他方国土の衆生を利益したまうことをいえば、その折伏門においては、種々の妙なる相好や荘厳の威力をもって、悪魔外道の驕慢を降伏したまう。それゆえ、観音大士も宝冠のうちに弥陀の尊像を安置して礼拝される。私たちがどうして頂礼せずにおられようか。願わくば、一切衆生とともに、御国に生まれさせたまえ。

 

(5)また、その摂取門についていえば、比べものなき無垢清浄なるおおくの御徳は、虚空のように皎潔(すきとお)って、作(な)したまう利益は自在であらせられる。願わくば、一切衆生とともに、御国に生まれさせたまえ。

 

(6)十方の名高い菩薩衆や、無量の魔軍が、声をそろえて讃めあげることである。一切衆生のために願力を住持して、この願力をもって一切衆生を摂め取り給うのである。願わくば、一切衆生とともに、御国に生まれさせたまえ。 

 

(7)御自国での御説法のさまを仰げば、黄金の底、七宝の渚でできた池の蓮華には、善根からできた妙なる高座があって、御親はその上に須弥山のように坐したまう。願わくば、一切衆生とともに、御国に生まれさせたまえ。

 

(8)この安楽の浄土へ、十方から神通をもって諸の菩薩が集られて、うやうやしく本師の尊顔を仰いで礼拝される。願わくば、一切衆生とともに、御国に生まれさせたまえ。

 

(9)そのとき「あらゆるものは無常であるぞ、無我であるぞ、と因縁によって成れるゆえに因縁が解ければものは変わる。水中の月、稲妻の光、朝の草の露のごときものぞ。」と、大衆ために説法をなされる。しかも執着を起こさせるような言葉は用いられないのである。このように尊い御親、このように楽しい御国、願わくば、一切衆生とともに、御国に生まれさせたまえ。

 

【語句解説】
・観音頂戴の冠中に=観世音菩薩の頭上の冠の中に。『大日経』等に、この菩薩は宝冠の内に弥陀仏像を安置したまうとある。
・無比・無垢にして=比較するものなく、汚れもなく。  
・衆徳皎潔=いろいろの勝れた性質やはたらきが、浄らかに澄み渡ること。
・妙台座=すぐれて巧みな台座。   
・諸有=あらゆるもの。
・水月=水に映る月影。
・名字なし=すべては因縁によって生起して仮に存在するもので、概念的に捉えられたような実体はないという空の道理の言葉 
 

第二節 依報
第一項 無畏の土徳

【原文】
(10)
彼尊仏刹無悪名 亦無女人悪道怖
衆人至心敬彼尊 故我頂礼弥陀尊

【書き下し】
(10)かの尊の仏刹には悪の名なし。また、女人と悪道との怖れなし。
衆人、心を至してかの尊を敬ふ。ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。
願はくば諸の衆生と共に安楽国に往生せしめたまへ。

【意訳】
(10)彼の阿弥陀仏の浄土には、女人とか、障害者とかいう悪い名称さえない。従ってその実体は無論ないのであるから、女人や悪道に生まれる恐れがない。一切衆生は、真実心から彼の御仏を敬いたてまつる。私もまた、それに後れないで、御親を礼したてまつる。願わくば、一切衆生とともに、御国に生まれさせたまえ。                  

【語句解説】
・柏原本では第十偈に不退の土徳、第十一偈に無畏の土徳の偈がでている。ここでは注釈版の順にしたがった。
・仏刹=仏の国、浄土。
・女人と悪道=注釈版補註14参照p1566

第二項 不退の土徳

【原文】
(11)
彼尊無量方便境 無有諸趣悪知識
往生不退至菩提 故我頂礼弥陀尊

【書き下し】
(11)かの尊の無量方便の境には、諸趣と悪知識あることなし。
往生すれば、退せずして菩提に至る。ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。
願はくば諸の衆生と共に安楽国に往生せしめたまへ。

 

【意訳】
(11)彼の阿弥陀仏が無量の真実心をもって設けてくださった浄土には、迷いの境界もなく、また迷いに導く悪知識もない。従って、往生すれば遂に退かないで仏の覚に入るのである。いま私はこの御浄土の御主であられる御親を拝したてまつる。どうぞ願わくば、一切衆生とともに、御国に生まれさせたまえ。 

 

【語句解説】
・無量方便の境=量りしれない慈悲の手だてで設けられた世界。弥陀浄土。
・諸趣=いろいろな迷いの境界→六道。
・悪知識=善知識の反対。悪い教えを説いて人を誤った道に導く者。
 

第三項 結願回向 

【原文】
(12)
我説彼尊功徳事 衆善無辺如海水
所獲善根清浄者 回施衆生生彼国

【書き下し文】
(12)われ、かの尊の功徳の事を説くに、衆善無辺にして海水のごとし。 
獲るところの善根清浄なれば、衆生に回施してかの国に生ぜしめん。
願はくば諸の衆生と共に安楽国に往生せしめたまへ。

 

【意訳】
(12)上において謹んで十一偈を説き、尊き御親の功徳の事体(ことがら)について述べました。彼の功徳福善は無辺にましますこと、海水の様である。私は是をほめ讃えて心に清浄なる歓喜を覚えます。この歓喜は百万の徳にも喩えられない善根であります。今、私が是を頂いて、一人で楽しむに忍びません。どうぞ、一切の衆生にも貰い分けをして勇ましく、喜び進んで御親の国に参ろうと思います、どうぞ、一切衆生と共にこの罪深い私を迎えとりたまえ。

 

【語句解説】
・回施=めぐらし施すこと。

 

【余義】
 真宗回向論 浄土真宗には自力の回向はない、不回向である。けれども、自信教人信で、自ら信じたものは人にも教えたいという心が起こり、自ら貰ってよろこぶものは人にも教えて喜ばせたいという心が起こる。この心から、他人に向かってなす教化を回向というのである。従って自力の回向ではない。宗祖聖人が『高僧和讃』の終わりに、

 

  南無阿弥陀仏をとけるには
  衆善海水のごとくなり
  彼の清浄の善身に得たり 
  ひとしく衆生に回向せん。 p599

 

とあるごとく、南無阿弥陀仏の善を得た喜びを他人にも教えるのが、真宗にいう回向の義である。この和讃は、正しく今の一偈の意によられたので、前の十一偈の意をつづめて、「南無阿弥陀仏をとけるには」とおっしゃった。

 

 今の偈にはこれを無辺の衆善と言っておられる。開けば衆善、合すればただ一つの南無阿弥陀仏、風吹けば千波万波、風やめば海水湛然、動と静と暫く異なっているけれども、そのものがら(体)は1つである。この衆善摂帰の南無阿弥陀仏を信じ、またこれを人に教えるのが回向である。

 

十二礼 終了

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