序文

本文

ひそかに愚案を回らしてほぼ古今を勘ふるに、先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思ふに、 幸ひに有縁の知識によらずんば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まつたく自見の覚悟をもつて他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところいささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々

意訳

ひそかに愚案を回らしてほぼ古今を勘ふるに、先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思ふに、 幸ひに有縁の知識によらずんば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まつたく自見の覚悟をもつて他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところいささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々

問題提起

歎異抄とは親鸞聖人のお言葉を記されたものと聞きますが、それが誰によってどういう目的で、いつ頃なされたものでしょうあk。また、どういう体裁で書かれているのでしょう。さらに浄土真宗を知らない人々の間にも歎異抄はよく知られていますが、この様に多くの人々に愛読されているのは、どうした理由によるものでしょうか。

一、誰によってどういう目的で

昔からいろいろ説がありますが、今日親鸞聖人のお弟子の唯円房であることが、ほぼ定説になっています。しかも唯円房は唯円大徳と尊称されていますので、聖人の門弟の中で衆を抜き多くの人々の信望を集めておられたことが容易に伺えます。

序分並びに別序、最後の後序の文を拝読しますと、これをお書きになった心持ち、いや書かねばならなかったお心がよくうかがえます。

聖人が関東の布教伝道時代、聖人より直接にみ教えを聞いている人々には間違いがありませんでしたが、聖人が京都にお帰りになり、また往生された後に聖人の直弟子より教えを聞いた人々、すなわち孫弟子に及んだ時にそれぞれが自分勝手な考えをもって解釈する様になり、そこに教えが乱れて、聖人のおすすめになった信心とは似ているが、異なる信仰が広がっていきました。

この姿をご覧になった唯円房が聖人亡き後、二、三十年にして、この様に教えが乱れている。今後さらにどの様に乱れていくかを悲しまれて、これを正すために老いの身に筆を取り悲喜の涙を押さえながら、書き記されたものであります。

歎異抄の体裁は、序文、師訓十条(親鸞聖人のお諭し)、別序、異義八条、後序よりなっています。序文とは歎異抄を書くお気持ちをお述べになり、師訓十条とは、親鸞聖人のお言葉が唯円房の耳の底に残っているものをそのままお書きになったのであります。

これは申すまでもなく異義安心、すなわち間違った教え信仰を正すものさしとして記されたのであります。どんなに異義安心と指摘しても、それだけでは水掛け論になってしまいます。したがってそれを正す尺度がなければなりません。

次に別序と異義八条でありますが、唯円房は当時流行している代表的な異義安心を八つ挙げて下八条を引き起こす役割を果たしているのが別序であります。

最後の後序は歎異抄全体を結ばれたものであり、ここには師訓十条と異義八条とともに重要な深い意味を含んで歎異抄全体を引き締めています。それは後に詳しく述べることにいたします。

二、一人一人の悩みに応えて

歎異抄の特徴を一機一縁と先哲は鋭く指摘されています。このことは歎異抄を理解する上に大変大切なことであります。一機一縁ということが理解されなかったならば、おそらく歎異抄を読み切ることはできないでしょう。

一機一縁とは今の言葉で申しますと、ケースバイケースということにあたるでしょうか。すなわち、悩みを持った人々が聖人を訪ね個々の悩みを訴えられました。その時聖人は静かに相手の悩みに耳を傾け、それに共感しながら、その悩みの言葉に触発されて聖人の口よりポツリポツリ応えが語り出されたものと思われます。

本音より出された問いはどんなに素朴な問いであっても、万人の胸に響きます。常に聖人のお側におられ弟子唯円房は、その問いを聞きつつ、私にもその様な庾信がある。果たして聖人の口よりどの様な応えが出されるか、と耳を澄まして聞いておられたことでしょう。聖人の口よりもれる一語一語はまた、唯円房の胸に深い感動を与えたことと思います。それゆえに聖人なき後二十年から三十年の後にも、耳の底に鮮やかに焼きついていたのでしょう。

この様に師訓十条は個々の問いに対してその応えを出されたものでありますから、あくまで一人一人の問いに応えられたもので、真宗の教義を普遍的に、また体系的に述べられたものではありません。一人の悩みはそのまま万人の胸に響くものであります。したがって歎異抄が多くの人々の共感を呼び、愛読されるのもよくうなずけます。

今日歎異抄は英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、韓国語など多くの外国語に翻訳されて、世界最高レベルの終教書として尊重されているのもこれによるのであります。

この歎異抄が世に現れたのは、著者唯円房が亡くなって約二百年の星霜を経た頃です。本願寺中興上人と仰がれる蓮如上人が、やがて本願寺第八世の門主の位につくため関東を巡回されました時に、唯円房によって開かれたお寺が発見されたものであります。

蓮如上人はこの書こそ浄土真宗の信仰を鋭く、また明らかにされた誠に貴重な書であることを確認されて、初めて世に公開されました。しかし上人は奥書に、

「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機において は、左右なく、これを許すべからざるものなり。」

と、注意を書き添えられました。このこころは歎異抄は正宗の名刀の様に鋭い切れ味をもっている。剣に心なきものが正宗の名刀を持てば、かえって親鸞聖人の御教えを誤って受け取り、聖人の教えを乱す様な結果になるから、素養のないものにはみだりに見せてはならないとのお心であります。

本願寺におきましては明治初年までは、一般に公開されなかったのも、この理由によると言われています。明治維新以来一般の人々に公開されその真価が発揮されて、宗門内外の人々から脚光を浴びる様になりました。西田幾多郎博士は晩年

「私が書いた書物は全部空襲で焼かれても、日本に歎異抄と正法眼蔵が残れば悔いはない」

と、弟子に語られました。

三、歎きの心

利井鮮妙和上は、次の様な言葉を述べておられます。

「無安心の者は憐むべし。異安心の者は恐るべし。」

と。すなわち、信仰のないものは、その人一人が地獄に堕ちていく。けれども信仰の間違った者は自分のみならず、多くの人々を引き連れて地獄に堕ちていく、というのであります。

今、唯円房が聖人往生の後、わずか二、三十年にして色々な異義安心の流行を見て、これを悲しみつつその誤ちを正すために書かれたのがこの書でありますが、異義異安心はあくまで排斥し打ち破っていかねばならないものであります。創価学会の言葉を借りていば、まさに折伏すべきものでしょう。その使命をを持ったこの書に、歎異、すなわち異義異安心を歎く書と名付けられたのはどういう心からでしょうか。

これについて思いを巡らしますと、あくまで排斥し、絶滅していかねばならない異安心ではありますが、そうした一群の人々が、唯円房の目にはどの様に写っていたのでしょうか。例え異安心を抱く人々の上にも、み仏の大悲は限りなく注がれています。

その大悲を、自分の計らいを持って遮っているということは、なんという悲しいことでしょうか。大悲の親様み仏は、どの様に眺められているでしょう。たとえ間違っていても、仏の愛子には変わりはありません。

ここまで思いを致すときに、たとえ異義異安心を唱える人々をも唯円房はどうしても切り捨てることは出来なかったのです。どうかその誤ちを正して、正しい信仰の世界に立ち返ってくれよとの、切々たる願いが、この歎異の歎の一字にこもっていることを見落としてはいけません。

利井鮮妙和上の和歌に

”子の罪を、親こそ憎め憎めども
捨てぬは親の なさけなりけり”

うたわれた風情であります。