第十章 龍樹章

釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

釈迦如来、楞伽山(りょうがせん)にして、
衆のために告命(ごうみょう)したまはく。
南天竺(南インド)に龍樹大士世に出でて、
悉く能く有無の見を催破(ざいは)せん。
大乗無上の法を宣説して、
歓喜地を証して安楽に生ぜんと。

難行の陸路、苦しきことを顕示して、
易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。

弥陀仏の本願を憶念すれば、
自然に即の時に必定に入る。
唯能く常に如来の号(みな)を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべしといえり。

 お釈迦様が楞伽山で説法し給うた時に、お弟子の大慧菩薩が、この尊いみ教えは世尊の涅槃の雲にかくれました後はどうなるのでしょうかと問われたのに対して、私の亡き後に南インドに龍樹と名乗る菩薩が現れて、正法に背(そむ)いて人々を惑わした外道(仏教以外の思想、宗教)の有の見(常見)、無の見(断見)の邪見を悉く打ち砕いて、自らは菩薩の初地の位、即ち真如の一部が見える歓喜地(かんぎぢ)の位をさとって、やがて安楽国に生まれるであろうとお答えになりました。

 このお釈迦様の予言に応じて現れた龍樹菩薩は、外道の邪見を摧破(ざいは)して、大乗無上の法を明らかに説きつつ、お釈迦様の一代の法を難行、易行道に分けられて、もはや後返りしない不退の位に達するのに、難行道は例えばけわしい陸路を行くようなものであり、易行道とは水路の乗船を楽しみつつ行くようなものであると教えられました。更に易行道の内容を説かれて、本願を信受する信心によって必ず浄土に生まれるべき必定(ひつじょう)の位、即ち正定聚(しょうじょうじゅ)に住し、如来の大悲を報ずる為に常に称名念仏すべきことを教えられました。

一 お釈迦様の予言

釈迦(しゃか)如来(にょらい)楞伽山(りょうがせん) 為衆告命(いしゅごうみょう)南(なん)天竺(てんじく)
龍(りゅう)樹(じゅ)大(だい)士(じ)出(しゅっ)於(と)世(せ) 悉(しつ)能(のう)摧(ざい)破(は)有(う)無(む)見(けん)
宣(せん)説(ぜつ)大(だい)乗(じょう)無(む)上(じょう)法(ほう) 証(しょう)歓(かん)喜(ぎ)地(ぢ)生(しょう)安(あん)楽(らく)
 先に七高僧共通の功績を讃えられましたがこれより以下は一人一人の勲功を讃えられるのであります。今の、「釈迦如来楞伽山」より「応報大悲弘誓恩」まで十二句は、第一祖の龍樹菩薩を讃えられたのであります。
 インドは、歴史のない国と言われております。それは、古代の印度の人々は記憶力に富んでいたので、文字に書き残さなかったことによるのであります。従って龍樹菩薩の出生の年代についても定説はなく、九説が伝えられて、お釈迦様滅後、百年説から九百年説に及んでいます。しかし、いろんな資料を総合して、釈尊滅後七百年位という説が最も有力です。それは紀元二、三世紀頃に当たります。龍樹菩薩は青年の頃、英才の誉れ高かったのですが、友人と共に色欲に耽りました。その為に友人が斬殺された姿を見て、色欲は身を滅ぼすもととさとり、出家して初めは小乗仏教を学ばれましたが、後にヒマラヤ山中に住む老比丘(老僧)より、大乗仏教の教えを学び、その奥義に達して甚深微妙なる法を究められました。そうして千部の書を著されましたので、世に千部の論師と言い、第二のお釈迦様とも讃えられ、又八宗(各宗)の祖師とも仰がれています。その中、大智度論百巻、十住毘婆娑論十七巻は最も代表的なものであります。
 この龍樹菩薩の輝かしい徳をあらわすものに楞伽の懸記というのがあります。懸記とは遙に記すということで、予言のことであります。即ち楞伽山(りょうがせん)でなされたお釈迦様の予言です。この予言を読む時に、私には次の様な状況が頭に浮びます。
 インドの南海岸に険しくそそりたつ楞伽山に、お釈迦様の説法の座が開かれようとしていました。多くの秀れたお弟子並びに一般の大衆は寂(せき)として声はなく静まりかえって、海を渡そよ風は、青葉を通して肌に心地よく、空はあくまで青く澄み渡って、さえずる妙なる小鳥の声はお浄土の伽(か)楞(りょう)頻(びん)伽(が)の鳥の声にも似ています。お釈迦様のやさしいお顔には、真実を説く喜びが満ち溢れています。自信を深く心中に湛えてやがて静かに説かれる一語一語は、清い泉のこんこんと湧き出て大地を潤すように一人一人の胸に注がれて行きました。説法が終わってもお弟子達は感動と喜びに胸ふるえ、その喜びをかみしめて誰一人として声を出す者がありません。
 ややしばらくして、大(だい)慧(え)菩薩が進み出て、恭しく大地に跪(ひざまず)き合掌礼拝してお釈迦様に申しました。
 「世尊よ、私は幸いにも世尊に遇うことが出来てこのような尊いみ教えを聴聞することが出来ましたが、世尊も地上の定めに従ってやがて涅槃の雲におかくれになられることでしょう。その時、この尊いみ教えはどうなることでしょうか?」
その時お釈迦様は静かに、
「私亡き後この正法は、暫くは正しく伝えられるが、やがて心なき比丘(僧侶)によって乱されるであろう。その乱れの隙に乗じて、有の見、無の見の邪法(第八章参照)がはびこり、その為、正法は一時影をひそめる、その時南インドに龍樹と名乗る菩薩が現れて、邪法を悉く打破り、大乗の甚深微妙の法を明らかに宣説しながら、やがて歓喜地を証して、阿弥陀如来の安楽浄土に往生するであろう」
と予言されました。
 その予言の如く南インドに出現されたのが龍樹菩薩であります。この予言は楞伽の懸記と申しまして、今日残されている楞伽経の中に明らかに記されています。
 親鸞聖人はこのお釈迦様の予言に深い感動を覚えて、七高僧の第一祖に挙げられたのです。
 それを今、「釈迦如来楞伽山にして衆のために告命したまはく、南天竺に龍樹大士世に出でて、悉く有無の見を催破せん、大乗無上の法を宣説して歓喜地を証して、安楽に生ぜんと」と仰せられ、更にこの心を和讃に

  南天竺に比丘あらん 龍樹菩薩と名付くべし
  有無の邪見を破すべしと 世尊はかねて説き給う

と詠われました。

二 龍樹菩薩の勲功=易行道を開く

顕(けん)示(じ)難(なん)行(ぎょう)陸(ろく)路(ろ)苦(く) 信(しん)楽(ぎょう)易(い)行(ぎょう)水(しい)道(どう)楽(らく)
 龍樹菩薩の輝かしい功績は、先に申しましたように、お釈迦様の説かれた仏法を、難行道、易行道に大きく分けられて、難行道とは険しい陸路を行くようなものであるとして、ひたすら易行道をお勧めになったことであります。易行道とは水路を行く船路の旅であると懇(ねんご)ろにさとされました。
 けれどもここに見落としてはならない大切なことがあります。それは難行道とは後に曇鸞大師によって自力であると説かれましたが、自力の行が何故難行かということについて、龍樹菩薩は諸(しょ)、久(く)、堕(だ)の三つの難を挙げておられます。即ち自力の行は諸善万行を修めて行かねばならない。又これには久しい時間がかかる。そうして途中で堕落するおそれがある。この故に難行と仰せになりました。この自力の行に対して、一人の修行者が質問をしました。
 諸、久、堕の三つの難があるから、この行を完成することは難しい。よって他に易行のやさしい道がないかと。
 これに対して、汝の言葉はまことに弱い愚かな劣った者の言葉で、仏道を求める大きな志を持った勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)の丈夫(ますらお)の言葉ではない、と厳しく叱っておいて、尚、易行道を求めようとするならば、その道はあると易行道を説き開いて行かれたのであります。何故修行者の質問に対して、直ちに易行道を説かずに修行者の言葉が弱い愚かな劣った者の言葉だと叱られたのでしょうか。ここのところを留意しなければなりません。
 私はこのことを思う時に親鸞聖人の比叡の自力の行を捨てて、法然上人の他力の念仏に入られた時のことを思うのであります。もし親鸞聖人が自力修行の難行の外に、他力念仏の易行の道があるから、というので自力を捨てて他力に入られたならば、それは堕落の道をたどったと批判されても仕方はないでしょう。果たして親鸞聖人はそのような方であったでしょうか。私にはそうとは思われません。聖人の厳しい山上での修行中、数々の難行苦行に耐えながら、常に胸の中に一つの疑惑があったのではないでしょうか。仏教は果たしてこの道だけで良いのであろうか。もしこの道だけだとすると、み仏の救いにあずかる者は極く一握りの選ばれた人に限られてしまう。仏の慈悲は大悲と言われ、あらゆる人々の上にも注がれている筈、それは万人の救いを約束したものであるにもかかわらず難行苦行に耐え得るものしか救われない、それが仏の救いであろうか。少なくとも女人禁制の比叡の掟に従えば、人類の半分の女性は完全に仏の救いの圏外に締出されている。仏教はこれだけでよいのであろうかという疑惑であります。
 聖人のこの心中の苦悶を伝えるこうした伝説が残されております。聖人が修行中、一日都に下りられました。そうして帰途、みやまの麓、赤池明神の境内にさしかかりました。この明神は、比叡山守護の神として祭られているのであります。ここまで来た時、うら若い女性の声がしました。
「もし御出家様、私は恋に破れ、人の世に生きる望みを失った悲しい者であります。この上は、み仏の袖にすがって生きたいと存じます。私を比叡のみ山にお連れ下さい」
「あなたは御存じないのですか、比叡は厳しい女人禁制のみ山であります。この境内から女性は一歩も山に入る事は許されません」
「み仏の大悲は罪深い悲しき者にこそ注がれるのではありませんか。その女性がみ仏のお慈悲にすがれないとは・・・もし女人禁制と言われるならばお尋ね致します。み山に女鹿(めじか)女猿(めざる)はいないでしょうか。女鹿女猿がいるみ山に、どうして人の子の女性が登る事が出来ないのでしょうか」
「あなたの気持、私も同じであります。修行未熟な私には、あなたの問に答える力はありません。どうかお許し下さい」
と袖を振り切って逃げるように山に帰られました。
 こうした伝説の事実があったかどうかは問題ではないでしょう。聖人の胸にうごめく疑惑と苦悶を伝えて余すところがありません。
 聖人の心中には、この自力修行の道は決して間違っているとは思えない。しかし仏教はこれだけではない、ほかに今一つの道がある筈、否、なけらばならない。この疑問の最後の解決を求めて、六角堂に百日お籠りになったのであります。そうして九十五日目の暁、救世観世音菩薩の夢の告げによって、法然上人を訪ね、他力念仏の易行の道に転入されました。このことは何を物語るのでありましょうか。
 それは決して先に申しましたように、仏道に難行道、易行道があり、難行道は難しいから易い他力の易行の道に向かわれたというようなそんな安易なものではなくて、自力修行の限界を見究めて、難行道を超えた他力の道に転入されたのであります。即ち難行道を手がかりとして他力易行の万人の救われる道を発見されたとも言うべきでありましょう。
 この心を龍樹菩薩は難行道の苦しさを逃れて、安易に易行を求めようとする者に対して汝の言葉は弱い愚かな、劣った者の言葉であって、仏道を求めようとする大きな志、勇猛(ゆうみょう)精進のますらおの言葉でないと厳しく叱り、難行自力の限界を知らせた上で、易行の大道、即ち万人救済の他力の道を開かれたのであります。親鸞聖人はこのことを和讃に

  生死の苦海ほとりなし 久しく沈める我等をば
  弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ず渡しける

と詠われました。船のみぞの「のみぞ」の言葉に千金の輝きがあることを見落としてはなりません。
 私はこの和讃を拝読する時に、今から十数年前に日吉町立特別養護老人ホーム青松園の法話会の時の事を思い浮かべるのであります。その日は午前中法務が重なっていましたので止むを得ず午後二時からにしました。かねては十一時より始めて、済めばすぐ昼食なので話合いの時間がありませんでしたが、その日は午後三時に終り、入浴時間が四時になっていますので、
「今日は時間がありますから、しばらく話合いしましょう、何か聞きたいことがあれば何でも言って下さい」
と話合いに入りました。けれどもなかなか発言がありません、この老人達には、何を聞いたらよいのかそれが解らなかったのでしょう。私も辛抱強く発言を待っていました。ややしばらくして両眼失明したおばあさんがおそるおそる
「先生この間から心配で心配でねむれない事があるのです。私はこうして目が見えませんが、ここにお世話になっている間は寮母さんやお友達の御世話で何とかやって行けます。でも命が終ったら三途の川を渡り、死出の山路とやらを歩いて行かねばならないそうですが、眼の見えるほかの人達はずんずん先に行ってしまって、目の見えない私は、知らない所で一人取り残されてうろうろしなければならないかと思うと、心配で心配でねむれないのです」
 素朴な問いではありますが、このおばあさんにとっては大変な問題だと思いました。
「おばあさん、そのことなら少しも心配はいらないのよ、自力の教えだったら自分で険しい道を歩いて行くのだからその心配はいりますが、私達の頂いている他力のみ教えは、本願弘誓の船に乗せられて行くのですから目の見える人、見えない人、足腰の丈夫な人、弱い人、皆平等に連れられて行くのですから」
と申しました。するとおばあさんの顔にややホッとした安堵の色が見えました。
「では先生、命終った時に、その弘誓の船とやらに乗り遅れないようにさえ気をつけておればいいんですね」
「それは違う、命終った時には、弘誓の船がお浄土についた時よ、乗るのは今よ、こうしてみ仏のお慈悲を聞いて、煩悩一杯持った私に、そのままを安心してこの親にまかせよ必ず救うと呼んでいて下さる仰せに、素直にハイとおまかせする。これが弘誓の船に乗せられた姿よ」
と話しました。おばあさんが思わず合掌して、見えない目から涙ポロポロ流しながら、
「じゃ先生、何の心配もいらなかった、このままでよかったんですね、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
とお念仏されました。他力の救いとはまさにこの風光で、大悲の呼び声に素直に信順し、おまかせする、その後の生活は、大悲弘誓の船に乗せられた生活であることを私達によくよく味わわせて頂きましょう。そこに信仰以前の生活と信仰の生活との大きな違いがあることを知らねばなりません。このことを聖人は、

  大悲の願船に乗じて光明の広海(こうかい)に浮びぬれば、至徳(しとく)の風静かに、衆禍(しゅか)の波転ず。
  すなはち無明の闇(あん)を破し すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す 
   (教行信証 行の巻 p189)
と仰せになりました。これは如来の大悲にめざめ、帰り行く命のふる里を知らされて、大悲に支えられて生き行く喜びを述べられたのであります。

三 信心正因と称名報恩

憶(おく)念(ねん)弥(み)陀(だ)仏(ふつ)本(ほん)願(がん) 自(じ)然(ねん)即(そく)時(じ)入(にゅう)必(ひつ)定(じょう)
唯(ゆい)能(のう)常(じょう)称(しょう)如(にょ)来(らい)号(ごう) 応(おう)報(ほう)大(だい)悲(ひ)弘(ぐ)誓(ぜい)恩(おん)
 龍樹菩薩は、先に申しました通り仏道に難行道、易行道ありと説かれて、易行道をすすめられて、自らも易行道によって阿弥陀仏の浄土に往生して行かれましたが、今ここでは易行道の内容を示されたのであります。
 憶念弥陀仏本願とは、阿弥陀如来の本願を素直に頂き心に忘れないことであります。即ち信心決定のことをいわれました。その信心決定する時、間髪を入ずに、即時に必ず浄土に生れる位に即(つ)くことを、即時入必定と仰せになったのです。言葉をかえて言えば、信心正因を顕わされたのであります。和讃にこの意を、

  金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ
  弥陀の心光摂護(しょうご)して ながく生死をへだてける p591

と詠われました。次に、
唯(ゆい)能(のう)常(じょう)称(しょう)如(にょ)来(らい)号(ごう) 応(おう)報(ほう)大(だい)悲(ひ)弘(ぐ)誓(ぜい)恩(おん)
とは信心決定して必ず往生する身にならして頂いた者は、常に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と名号を称えて、如来の大悲におこたえすべきことを諭されたのであります。これは取りもなおさず私達の称えるお称名は、善根功徳を積むためのものでもなければ、利益を求める呪文でもなく、広大な仏恩を仰ぐ報恩感謝の称名であることを示されたのであります。
 浄土真宗の教えは、信心正因、称名報恩と定められていますが、それは龍樹菩薩の教えにもとづかれたものです。信心正因のことはこれまでしばしば述べてまいりましたのでそこにゆずり、称名報恩について考えてみたいと思います。
 何故称名が報恩と言われるのでしょうか。ひとつには大悲に救われた喜び、即ち報恩感謝の思いから称えるからであります。二つにはこの称名は上(じょう)讃(さん)仏(ぶっ)徳(とく)下(げ)化(け)衆(しゅ)生(じょう)といわれているように、上(かみ)はみ仏のお徳を讃嘆し、下(しも)は衆生を教化する徳が具わっているからであります。蓮如上人が「尼入道のたぐひのたふとやありがたやと申され候ふをききては、人が信をとる」p1262と仰せになったのはこの意です。では何故お念仏に人々を仏法に導く徳があるのでしょうか。み仏を讃嘆するお念仏は、そのままみ仏の大悲が、私の口を通して現れている相(すがた)にほかなりません。このお念仏について甲斐和里子先生は、

  みほとけの み名を称える我が声は 我が声ながら 尊かりけり

と詠われ、又原口針水和上は、

  我れ称え 我れ聞くなれど これはこれ 連れて行くぞの 弥陀の呼び声

と詠われました。
 又私の恩師利井興隆先生は、

  今日も又 連れて行くぞの声聞かば 道知らぬ身も 迷いやはする

と詠っておられます。これは何れもみ仏の大悲が私の口を通して、宇宙法界に活動している相を詠われているのであります。
 このお念仏と生活とのかかわり合いについて思いを巡らす時、私は蓮如上人と大和の了妙さんの対話を思い浮べます。久し振りに蓮如上人が了妙さんを訪ねられました。了妙さんは喜び迎えて、
「お上人様、お陰で元気でこうして糸車を廻しながらお念仏させて頂いて居ります」と申し上げた時に上人が
「了妙や、それは違うぞ、糸車を廻しながらお念仏をするのではなくて、お念仏の中に糸車を廻すのよ」
とお諭しになりました。これは生活の中にお念仏があるのではなくて、お念仏の中に生活のあることを諭されたのであります。信心を喜ぶ私達の全生活が仏恩報謝であり、又御法義繁昌の営みであると言わなければなりません。親鸞聖人が「世の中安穏なれ、仏法広まれ」の念願に生きるのが念仏者の姿勢であると仰せになったのはこの意であります。
 これについては二十年も前になりましょうか。私の尊敬する親しい法友佐々木次生(ささきじしょう)法兄のお寺(南隅組願生寺)に永代経の布教に行った時、昼のお説教が終わり、講師部屋に帰って来た時に、仏教婦人会長の前村まつさんが、いろいろお世話して下さいました。夕方近くなって前村さんが帰宅しようとされると、老坊守さんが、
「あなたどうせ一人身だから夕飯はここで済まし、御講師さんのお世話をして、晩の御縁に遇うて帰られたら」と言われました。前村さんは、
「いや、私は帰らせて頂きます」
と言われ、いくらすすめられても聞かれません。そこで私は、
「遠慮も時によりけりですよ、こんなに親切に言って下さっているのですから奥さんの言葉に甘えられたら」
とすすめました。すると、
「いや先生、私は遠慮して帰ると言っているのではありません。私がこのままここに居れば、晩の御縁に遇うのは私一人だけです。だから私は帰って、お友達を二、三人でも声をかけ誘ってお参りしたいからです。」
 私はこの言葉にハッと胸を打たれました。そうして、お念仏を喜ぶ人々は目のつけ所が違うなあと思い、
「解りました。ではお帰りなさい。いらないことを言ってすみません」
と言いました。その時前村さんがしみじみこんなことを言われました。
「一人でも多く御縁に遇って頂こうと誘ってまいった時に、御講師のお話しが難しくてよく解らない時は、私はともかく、誘って来た人に対して、身を切られるような思いがします。」と。私はこの言葉を聞いた時に、布教使の責任の重大さを深く感じて、布教使は常に勉学に心がけて、こうした純真な人々の期待に背くようなことがあってはならないと感じたことでした。
 今、称名が報恩と開顕されたのは、ただ仏前に座ってお念仏することだけではなくて、私の生活全体が仏恩報謝の営みであることを教えられているのです。
 更にこれについて、深く思われますことは、お釈迦様はこの世を因縁所生(いんねんしょしょう)、相依相関(そうえそうかん)の世界と説かれました。これは総てのものは因と縁によって生じ、互いに関わり合っているということです。例えば網の目は全体の網の目によって支えられ、又一つの網の目は全体を支えています。このように私の生活は社会全体によって支えられ、又私の生活は社会全体を支えて、お互いに関連し合って存在しているのです。従って私の一挙手一投足、良い事、悪い事、そのまま全社会に影響を及ぼして、互いに響き合うのです。私はこの事について感じたことがありました。
 昨年(昭和五十五年)三月二十九日、私の四男哲量が、福井市の千福寺(住職高務祐成師)に迎えられました。今年御正忌に帰って来た折り、福井の特産である干柿を沢山土産に持って帰りました。
「お父さん、これは高いのですよ。」
「そうだろう、どうしたのか。」
と聞いた時に、お父さんの書かれた「輝くいのち」を読まれた門徒の人達が、報恩講にお参りした時に、
「貴方のお父さんは干柿が好きなようですね、と言って土産にと下さったのです」
「そう! 有難う、よくお礼を言っておいて」と申しましたが、私はこのことを通して、仏教で説かれてる因縁所生、相依相関の世界なる故に総ての行動が互いに響き合うということをしみじみと実感しました。
 私達の念仏に支えられた行為が、宇宙法界に響き合うことを思う時に、その行動の責任の重さをしみじみと感じさせられます。ここに浄土真宗門徒の規範として示された浄土真宗の生活信条の意義の深さを強く感ずることです。

  一、み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ強く明るく生き抜きます。
  一、み仏の光を仰ぎ、常に我が身を顧みて感謝のうちに励みます。
  一、み仏の教えに従い、正しい道を聞きわけて、まことのみ法を広めます。
  一、み仏の恵みを喜び、互いに敬い助け合い社会のために尽します。