第八章 聞法の姿勢

弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯

弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、
信楽受持すること甚だ以て難(かた)し。難の中の難これに過ぎたるはなし。

 阿弥陀如来の本願による他力念仏のみ教えは、因果の道理を否定する邪見の人々や、うぬぼれの心の強い驕慢の衆生には、信じ受け入れることはなかなかむずかしいのであって、難中の難、これほどむずかしいものはありません。

一 邪見

 信心の利益をあげてひたすら信心をおすすめになりましたが、お釈迦様の教えに基づいて書かれた依経段(えきょうだん)の結びとして、本願の念仏を頂く心構え、即ち本願に対する姿勢についてお諭しになったのがこの四句のお言葉であります。

 本願の救いの前には邪見の心、驕慢の心をはなれて、謙虚にみ教えを仰いで行きなさいとのお諭しであります。邪見とは、世間では血も涙もない非情な人を邪見な人と言いますが、本来仏教に於いてはそうではなくて、正しい因果の道理を否定する考えを邪見と申します。この邪見について二つのことが説かれています。

 一つは断見といって人が死ねばそれでしまいという考えであります。即ち心といっても魂といっても、それは肉体があるうちのことで、肉体が滅びたならば、心も魂も共になくなってしまうという考えであります。その状態はローソクの火が消えたように、また水の泡が消えたようにというのであります。この考え方によりますと、どうせ人間死んだらしまいだから、生きている間に面白おかしく暮らすのが一番賢い方法である。倫理や道徳もそんなことは問題でないという、ただ一瞬一瞬の享楽を追い求める快楽主義におちいって行きます。

 お釈迦様がインドに出られた頃、こんな考え方が当時の社会を風靡(ふうび)しておりました。これは当時のバラモン教の極端な苦行主義の反動として起こったものと思われます。けれども単に2,500年の昔の話でなくて、現代の人々の心を強く支配しているのではないでしょうか。即ち凶悪な犯罪や自殺の増加はこの考えによるものといわねばなりません。

 二つには常見であります。これは断見に対する真反対の考えで、人間死ねばまた人間に生まれる、犬や猫が死んだらまた犬や猫に生まれ変わってくるという考え方です。それと共に今一つはたとえ肉体は滅んでも霊魂は生きている、という考え方です。この考えも、やはり現代人の心を強く支配しています。よく耳にすることでありますが、どうも不幸や躓(つまず)きが続く、それで占い師に見て貰ったら何代前の祖先の霊がたたっているからと聞かされ、今までお寺に参ったことのない人がお寺に参って供養をあげることがしばしばあります。

 この二つの考えは相反した考えのようでありますが、現代人の心に同時にひそんでいるのではないでしょうか。ある時には人間死ねばしまいだという考えに傾き、ある時には霊魂の存在を信じその支配におびえる。それは共にその奥にひそんでいる死の不安から起るものであります。ドイツのハイデッカーは、不安の哲学を説いて、現代人はどうして落ち着くことが出来ないのであろうか、それは意識するとしないとにかかわらず、死の不安におびやかされているからだと鋭く指摘しています。

 一般に仏教はこの常見(霊魂の存在を認める)の考え方であると誤解している人が大変多いのです。けれどもお釈迦様は、人間死ねばしまいだという考え方も間違いと否定し、また肉体は滅びても霊魂は生きているという考え方も間違いと否定されたのであります。そこに三世にわたる因縁因果の法を説かれたのが仏教であります。ちなみにこの事をもう少し説明しますと、私がここにあり、いろいろの果報を受けていくのは、過去世の業の結果であり、未来の果報は現在なしつつある業によると説かれるのであります。

 お釈迦様が、過去世でつくった業(行為)を知りたいならば現在受けている果報を見よ、未来の果報を知りたいならば、現在なしつつある業を反省せよ、と説かれたのはこれによるのであります。即ち今一度申しますと、人が死ねばしまいになるのではなく、また霊魂だけが残るのでもありません。みづからのなした善悪の業によって私が次の世界に生まれ変って行くのです。

 仏教はこの三世因果の道理をふまえて説かれていますので、断見にしろ常見にしろ、因果の道理を否定する人々には、この法を信じ受け入れられないのは当然であります。

二 驕慢

 驕慢は一口に言えば自分は立派だという自惚(うぬぼ)れ、たかあがりの心であります。これについては二つ説かれています。一つは増上慢(ぞうじょうまん)、二つは卑下慢(ひげまん)であります。

 増上慢とは自分は偉い、何でも解っているという、たかあがりの気持ちです。よくあなたもお寺にお参りしませんかと勧めると、坊さんの話しぐらい解っているからと言う人があります。これが増上慢でありますが、この人達は仏法を聞く考え方が根本的に間違っています。仏法を聞くとは坊さんの話を聞くのではなく、坊さんを通して仏様の教えを聞くことなのです。このことについて昔の方々がお寺のお説教をお取りつぎと言われたのは誠にゆかしい、当を得た言葉であります。

 次に卑下慢とは、自分は愚かであり、浅ましいと口には言いながら、浅ましい、愚かと気付いただけ気付かない人々よりましだという気持ちです。浄土真宗のみ教えを聞く人々の中に、こうした誤(あやま)ちに陥る人々が案外多いように思われます。

 私たちはこの点よくよく注意しなければなりません。いずれにしてもたかあがりの心では正しく仏様のみ教えを頂く事は出来ません。

 今から三十年程前、私の町の中学校に、若い独身の先生がおられました。非常に頭の鋭い方でしたが、私にこんなことを言われました。

「私には親鸞の教えは解りません、悪人めあての救いとか、凡夫そのままで救われて行くというようなそんな倫理を無視した教えは到底受け入れられません」
と。その時私は、

「あなたは親鸞聖人の教えが解らないと言われますが、あなたはあなた自身が本当に解っていますか。早い話が、同僚の先生があなたより一足先に栄転されたと仮定します。その時あなたは口ではよかったですねと言っても心の内はどうでしょうか。何か妬(ねた)ましいおぞましい心が動かないでしょうか。そうしたあなた自身の本当の姿が見えない以上、親鸞聖人によって開顕された絶対他力の救いは到底解らないでしょう。」

と答えたことがありますが、他力本願の救いとは、邪見の心を離れ、?慢(きょうまん)の心を捨てて、我が身は悪(あ)しきいたずら者よと、謙虚に法を仰いで行くときに、誰の胸にも領解されるのであります。このことについては次の節で今少し詳しく味わってみたいと思います。

三 心得易い信心

 真宗の布教をする人々の中に、また門徒の中にも、浄土真宗の信心は難しい、難信であると説かれる方があります。この言葉には一面の道理はありますが、これだけの言葉では舌足らずで非常に誤解を生じ易いので不親切な言葉と言わなければなりません。

 浄土真宗はあくまで聖道門自力の難行道に対して、浄土門他力の易行道であるという踏え(ふま)をしっかりしておかねばなりません。浄土真宗を難信の法と言われる根拠を、「信楽受持することは甚だ以て難し、難中の難これに過ぎたるはなし」の言葉によって主張されますが、その前の言葉を見落としてはならないのです。

 邪見驕慢の悪衆生、この人々には、他力の信心を得ることが難しいというのであります。言葉をかえて言えば、邪見と驕慢の心を離れて、謙虚に本願のおいわれを聞くならば、誰の胸にもやさしくはいり込んで下さるのであります。それは阿弥陀如来は法蔵菩薩の修行の時に、保ち易い、称え易い南無阿弥陀仏の名号を案じ出(いだ)し給うたからであります。

 蓮如上人は「あら、こころえやすの安心(あんじん)や、また、あら、往きやすの浄土や」と仰せになっておられます。

 そこで問題は、如何に邪見の心を離れるか驕慢の心を捨て去るかにあるのです。我執、自惚れの強い私たち凡夫にとっては、このことが実に難しいと言わねばなりません。ここに難信の理由があるのです。

 しかしこうした私にも、必ず救うとのみ仏の大悲が働き注がれています。よって私たちは謙虚におみのりを聞いていく聞法の積み重ねの上に、いつしか邪見の心、驕慢の心がお慈悲の中にとかされてゆくのであります。

 もう20年も前になるでしょうか、毎年の5月22日より26日までの行信教校の安居(あんご)(研修会)に参加した時です。午前5時起床午後10時消灯、その間食事の時間を除いて、講義、論議、講演が行われます。夜の講演はおもに学生や先輩がされます。

 3日目のことかと思いますが、私も大分疲れをおぼえました。晩の講演の案内に来た学生さんに、「今晩の講演は誰ですか」と聞きました。
「今夜は学生と先輩です」
そこで私は学生さんの話ならば、疲れているから休もうかと思いました。が、せっかく南の果て鹿児島から来ているのだから、と自分に言い聞かせて本堂にまいりました。

 その当時、京都大学の文学部長であられた井上智勇博士が、一般の人々に混って数珠をつまぐりながら静かに聞いておられました。私はその時ハッとして頭を打ちのめされた感じがしました。学生さんより少しばかりよけいに勉強したことをつい鼻にかけ、学生さんの話だからたいしたことはなかろうと驕慢の心になっていたのです。

 井上智勇博士は、あれだけ広く深い学問を身につけながら、高校卒業して僅か3年程、仏教の勉強をした学生さんの話を謙虚に聞いておられる。私は自分のたかあがりの気持ちを恥じました。お話が終わって控え室で井上先生と話をしている時、私はふと

「先生ほどの方がよくあの学生さんのお話を聞かれますね」
と言いました。すると先生は、
「君何を言っているのだ。僕は学生の話を聞いているのではない。学生さんの口を通して語られる仏の教えを聞いているのだ。」
私はこの時、この先生こそ本当の学者であり、また信仰の人だと新たな尊敬の念が湧いてまいりました。

 私達は少々学んだ学問、身につけた教養、又長く話を聞いて覚えた理屈を鼻にかけて批判的に法話を聞いていないでしょうか。あの坊さん若いけど少々良いことを言うな、あの人はこの頃上手に喋るようになったな、こんな気持ちでお話を聞いていても、それではお話しが身につきません。またそれは真の聞法ではありません。己を空しくして静かにみ教えを仰いで行くのです。自分の方に一つのものを持って、批判的に聞いていても、それではみ教えが身につかないことをよくよく知らねばなりません。我が身は悪しきいたずら者と遜(へりくだ)って教えを聞かせて頂きましょう。

 そのことを今親鸞聖人は、裏の方から「邪見驕慢の悪衆生は信楽受持する事は甚だもって難し、難中の難これに過ぎたるはなし」と厳しくおさとしになったのであります。

 このおさとしは邪見と驕慢を戒めると共に、もう一つの意味があると先哲は申しておられます。それはこの他力のみ教えこそ最も勝れた最高の法であることを顕わしているのです。その時の「難」の意は、難しいという意味ではなくて「難(かた)い」即ち「有ること難(かた)い」という意味で、その辺のどこにでもあるという法ではなくして、誠に稀有な、有ること難い、尊い教えであるという意味であります。親鸞聖人は「遇い難くして今遇うことを得たり、聞き難くして已(すで)に聞くことを得たり」と嘆じられました。

 このように尊い教えであるから心を引き締め、身を正して真剣に聞きなさいというおさとしであります。