第十七章 信心をすすめて結ぶ

弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまふ。
道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。

『大無量寿経』並びに『観無量寿経』、『阿弥陀経』のお意を世々にわたって広めたもう七人の高僧方は、煩悩渦巻く濁りに濁った悪世の無量無辺の人々を憐み救いたもう。僧侶在家を問わずいずれの時代の人々も共に心を同じくして、唯この高僧の教えを信じなさい。

一 七高僧の功

弘経大士宗師等

 お正信偈の後段の依釈段では初めに七高僧の芳蹟を総じて讃嘆されて、「印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕し、如来の本誓機に応ずる事を明す」と仰せになり次に、七高僧一人一人の勲功、即ち教えを讃えられましたのでこれを結ぶにあたりて七高僧共通の功績を讃えて弘経の大士宗師等と仰せになります。

 これは七高僧おのおのおでましになった国や時代は違っても、お釈迦様が説かれた『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』のお意(ここころ)をそれぞれの立場から明らかにされて阿弥陀如来の本願を説いて人々をお救いになったことを讃えられたのであります。

 『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の三部経の取り扱いについては古来より、三経一致門と三経差別門の二つがあります。

 三経一致門とは『大無量寿経』は法の真実を説き、『観無量寿経』は機の真実を説き、『阿弥陀経』は機法合説と言われています。これを例えて申しますと、『大無量寿経』の法の真実とは重病を癒やす薬に当り、『観無量寿経』の機の真実とは正に重病人の姿を説き表されたものであります。『阿弥陀経』の機法合説とは、重病人が薬を飲んだ姿を説かれたのであります。

 『大無量寿経』に説かれた南無阿弥陀仏の名号は、『観無量寿経』に説き示された下品下生の極重の悪人に働くことを表し、『阿弥陀経』はこの名号によって極重の悪人が必ず救われることを説いて、しかもそれはお釈迦様一人の説法でなくして十方恒沙の諸仏がこれをまちがいないと等しく証明し讃嘆したもうたことを明らかにされたのであります。

 三経差別門とは、『大無量寿経』は初めから終(しま)いまで他力の教えでぬりつぶされ、『観無量寿経』は表には第十九願の自力諸善(定善散善)の道を説き、裏には他力の念仏を説かれています。『阿弥陀経』は『観経』に準じてその説きぶりを見るときに表には、第二十願による自力念仏を説き、裏にはやはり他力の念仏を説かれているのであります。

 説きぶりにはこのようにしばらく左右がありますが、お釈迦様の真意は正に、弥陀の本願の他力の教えによって苦悩の衆生を救うことにあったのはいうまでもありません。お釈迦様がこのような説き方をされたのは、自力修行の人々を他力念仏に導き入れる為の巧みな説法の手段でありました。

 従って七高僧の本意も、お釈迦様の心を明らかにして弥陀の本願を説くにありました。この七高僧のお徳を讃えて、「弘経大士宗師等」と仰せになったのであります。

 このように七人の高僧は出生された時代や国も違い、またその教えの説きぶりもそれぞれ異なった特徴がありますが、弥陀の本願を一器写瓶(しゃびょう)と言って、一つの器の水を次の器に増さず減らさず移していくごとく、正しく継承されたのであります。

 このことを親鸞聖人は「三国の祖師、おのおのこの一宗を興行す。このゆゑに愚禿すすむるところさらに私なし」と仰せになりました。この心は七高僧が各々この浄土真宗の教えを広め伝えられて、親鸞が別に新しいことを説くのではありませんということであります。

 この言葉によって窺われますように親鸞聖人が本願に遇いお念仏に救われた喜びを深く思われた時に、折角お釈迦様によって説かれたみ教えも、もし七高僧によって正しく継承されなかったならば私はこの法に遇うことは出来なかったと、その高恩を深く深く感佩(かんぱい)されて教行信証総序のお言葉に「西藩・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇いがたくしていま遇う事を得たり、聞き難くしてすでに聞く事を得たり。」述懐されています。

 このお言葉は印度中国日本の三ヶ国にわたって七高僧方の書き残された尊い聖典に遇い難くして遇った喜びをお述べになったのであります。

二 七高僧のあわれみ

拯済無辺極濁悪

 七高僧は今申しましたように『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』のお意を開いて選択本願(せんじゃくほんがん)の他力のお念仏を継承されて、偏に数限りない極重の悪人、即ち自己中心の我執煩悩の中に明け暮れし、迷いの生死の世界にさ迷うている私達を慈しみお救いになりました。

 この七高僧の恵みによって幾多(いくた)の人々が迷いの世界を離れて、寂静無為の清らかなみ仏の世界に生まれていかれたことでしょうか。そのことを静かに思いながら七高僧の憐れみ慈しみを受ける悲しき凡夫とは人のことではなくて、私自身のことであったとしみじみ思われます。

 そう申しますと、或いは、いや現代多くの人々は、私がなぜそんな憐れみ救いを受けねばならないものであろうか。一体私はどんな哀れな生き方をしていると言うのか。私は人間として恥ずかしくない立派な人の道を歩いているではないかと反発されるかもわかりません。私はこれについて次のようなことが頭に浮かびます。

 一切のみ仏は私達の姿を御覧になった時に思わず目を閉じ耳を塞ぐ、と説かれた事であります。私達が立派なこと正しいことと思っていること或いは行動している姿を御覧になりお聞きになったら、危なくて危なくて見てはおられず聞いてはおられなくて、思わず目を閉じ耳を塞がれると言うのであります。人間世界でも時としてこんなことがよくあります。

 かって私の恩師利井興弘先生から聞いたお話でありますが、昭和15年日支事変のさ中でありました。先生が結婚の仲人をされました。その花嫁さんは両親が早く亡くなられ一番上のお姉さん夫婦から親がわりに育てられた娘さんです。義兄さんは支那事変が始まって間もなく召集を受けて、支那大陸に転戦しておられました。この縁談も留守中に先生の勧めによるものでした。

 戦地の義兄さんも喜んで賛成されましたので、留守中ではありましたが式が挙げられました。仏式による式典も終り披露宴に移りました。酒が回されて次第に座もはなやかになり両家の親類の間に杯の取りかわしも始まりました。その時ホテルの支配人に

「先生、ちょっと」
と別室へ呼ばれました。
「どうしたのだね。何かあったのか。」
「先生大変な事ができました。」
「何が起こったのかね。」
「戦地に行っておられる花嫁さんの義兄さんが今戦死されたという公報が入りました。どうしたらよいでしょうか。」
「ああそうか。しかし今これを発表すると式が壊れるから済むまで伏せておきなさい。」
とおさえておいて何知らぬ顔をして元の席へ帰られました。

会場では新郎の側の親類の方がお姉さんの所に挨拶に行かれて、
「奥さん御主人は今、中支に転戦しておられるそうですがお元気でしょうか。」
「はい数日前手紙が来て『今度の妹の結婚式色々と心配だろうがよろしく頼む。自分は元気だから安心するように』と書いてありました。」
「奥さん大きな声で言えませんがある筋の情報によりますと、家庭を持ち二年以上戦地にいる兵隊さんは今度部隊の交替があって、日本に帰還されるようですがお宅の御主人は何年程になられますか。」
「日支事変の直後でしたからもう二年半近くになります。」
「そうですか。それでは今度の部隊の交替でひょっとしたら帰還されるかも。」
「そうだったらうれしいのですが。」

 奥さんは何も知らずうれしそうにニコニコしながら対応しておられます。その姿を見られた先生はまともにその奥さんを見ることが出来ずその声も聞くことが出来ずして、思わず耳を塞いでその場をはずして廊下にでられました。

 ああしたにこやかな明るい幸せも、後わずかの間で、我家に帰ってみると悲しい戦死の公報が届いている。一切のみ仏たちが私達の姿を見られた時に、思わず目を閉じ耳を塞がれると説いていますが、私達の姿は正にこの奥さんのような姿ではありますまいか。

 私はこの話を思い浮かべる時に行信教校に入学した当初、恩師利井興隆先生からこんなお話を聞きました。先生がいつも行っておられる理髪屋に行き散髪終わって世間話しの中に、

「おやじ、お前いくつになったか。」
「先生早いものですな、もう58ですよ。あと2年も経つと60ですが。」
「そうかもうそんな歳になったか。おもえもいつまでもうかうかしておらず時にはお寺に詣って御法義を聞かんといかんぞ。」

「先生それはようわかっています。けれどもこせがれが多くて今日の食べることに追われてなかなかお寺詣りする暇がありません。まあまあそのうちにお詣りします。先生こうしましょう。私が病気したら家内を先生の所に走らせますから先生来て下さい。そこで先生から有難いお話をチョコッと聞いてお浄土に参りますから。」
「アホ! そんなうまくいくものか。」
と言って帰られ、それから2日後にこのおやじ、心臓マヒでポコッと死にました。

今私はこの事を思うのです。この対話をみ仏たちが聞かれたら、思わず目を閉じ耳を塞がれることでしょう。賢そうな立派そうなことを言っていても私達の生活の姿はこれとどれ程の違いがあるでしょうか。

 今無辺の悲しき罪の人々を恵み救い給うと、七高僧のお徳を讃嘆されましたが、それは救わねばならない自己の姿を見つめつつ「拯済無辺極濁悪」と七高僧のお徳を讃えられたのであります。

三 親鸞聖人のすすめ

道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

 親鸞聖人はこのお正信偈を結ぶに当り、七高僧の『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の意を説かれて阿弥陀如来の本願を正しく世々に継承しながら濁りの世にさ迷うている苦悩の人々を救われた功績を讃えられました。

 それを承けて僧侶も在家の人々も何時の時代にあっても共に心を同じくして、ただ一筋に七高僧の教えを信ずべしと、強く無上命令の言葉を以ておすすめになったのがこの二句であります。

 ここで終りに臨んで今一度お正信偈の大綱を伺ってみますと、最初に申しましたようにまず親鸞聖人自身の信仰をお述べになって、「帰命無量寿如来、南無不可思議光」と仰せになりました。

 即ち我に任せよ必ず救うと呼び給うみ仏の仰せに、素直にハイと信順してお任せ致しますとお述べになり、大無量寿経のお釈迦様の教えと七高僧の御釈によって、そのことが間違いないことを讃嘆されました。

 従って依経段には「応信如来如実言」、釈迦如来の真の言葉を信ずべしと強くお勧めになり、依釈段にも「唯可信斯高僧説」とお説きになりました。

 「唯可信斯高僧説」の言葉には直接には七高僧の徳を讃嘆された依釈段の結びの言葉になりますが、信心を偏にお勧めになった親鸞聖人のお心からいただきますと、お正信偈全体の結びの言葉になるとうかがわれます。

 さて依経段にも依釈段にも信ずべしと力強く無上命令の言葉を以てお勧めになったお心を伺う時に私は、次の二つのことが深く思われます。

 一つは言うまでもないことでありますが親鸞聖人の信心の智慧の眼には、お釈迦様並びに七高僧と同じように人の世のありのままの姿がよく見えておられたということです。それは花が咲くのが人生ならば、花の散るのも人生ということです。即ち生きつつあることが人生であれば死につつあることも人生であります。

 私達にはこの二面が本当に見えているのでしょうか。生きつつあることは誰しも見つめ、如何に生きるかということについては額に汗しながら働いていますが、生の一面のみに心が奪われて死の一面が見えていないということがはっきり言えると思います。

 そう申しますと、そんなことはない、死ぬこと位は誰でも解っていると言われるかも知れませんが、それではあなたは死に対応する道を真剣に考えたことがあるでしょうか。また死の対応の道を身に付けられたでしょうか。

 これだけ科学が進歩しているのに、また科学万能を誇っていながら、いかがわしい迷信に振り回されている現代人の姿を見るたびに、迷信の根元である死の不安が解消されていかないことが強く感ぜられます。

 私は先日私の門徒の出来場(できば)集落の正信偈会の時に総代の増田蔵一さんが言われた話が頭に浮かびます。

「先生、私の父は仕事には大変やかましく小学校時代でも学校から帰ってくると休む暇も与えず畑や田んぼの仕事にかりたてられました。学校の勉強があるからと言っても勉強は学校でするものだと厳しく言って、許してはくれませんでした。

 そんな父ではありましたが、月二回の日曜学校にはどんなに仕事が忙しくても快く出してくれました。学校からの帰りが少し遅れると大変やかましく叱りましたが、日曜学校から帰った時は遅くなっても何とも言いませんでした。だから日曜学校では遊べるからと三十分かかる山道を休まず通いましたが今思うとこうしてお寺の総代をしてお寺のお世話が出来るのも日曜学校に快く出してくれた父のおかげです。」

と言われた時に、昔の人はたとえ高い教育は受けておられなくとも人生のまことの姿、即ち生と死がよく見えていたのだなあと思うことでした。

 蓮如上人が「それ、八万の法蔵を知るというとも、後世を知らざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世を知るを智者とすといえり。」とのお諭しが胸に響きます。

 生きつつあるが死につつあるこの厳粛な事実をしっかりふまえて力強く生き抜く道、それはみ仏の本願に遇うことであり、これなくして死を超えて生きる道があるでしょうか。増田さんのお父さんはこのことがよく見えていたと思います。

 み仏の本願に遇うことこそ凡夫のたった一つの救いの道であることを見抜かれた聖人が、この本願を身にかけてお勧め下さったお釈迦様七高僧の教えに対して、「如来如実のみことを信ずべし。また唯この高僧の説を信ずべし」と力強くお勧めになったのであります。

 今一つは聖人自身が阿弥陀如来の本願に遇うことによって人間に生まれた真の喜び真の幸せをひしひしと身に感じられたからであるとうかがわれます。

 昭和54年9月鹿児島別院並びに出張所の仏教婦人会の幹部研修会が行われて、私は1時から5時まで講話を依頼されました。4時で講話が終わり、後1時間は話合いにしました。予定通り5時に終わり会場から事務所の方へ行く途中、後から

「御院家さんお元気そうで結構ですね。今日は良いお話有難うございました。」

という懐かしい声がかけられました。山崎さよさんと言って20数年前日置におられた当時、明信寺仏教婦人会の幹事として熱心に御世話下さった方です。娘さんが鹿児島市紫原に家を作られたのでそこに一緒に住んでおられます。
「ああ、あなたですか。今日はよく参加されましたね。」

「御院家さんが見えることが1ヶ月前に知らされていましたので楽しみに待っていました。」
「ああそうですか。あなたも元気で結構ですね。あなた今日はどうして帰るのですか。」
「お友達とバスで帰ります。」
「それではもう少し待ちませんか。5時半に私を迎えに車が来ますから紫原を回って日置に帰りましょう。」
と言って同乗しました。

その車の中で、
「御院家さん、私はこの頃長生きして本当にありがたいとしみじみ思います。早く死んでおればこの御法義に遇うことも出来ませんでした。また若い頃はお寺にお詣りしましたがそんなに深く味わうこともなく聞き流していました。この年まで長生きしたお陰でこんなに深く御法義が味わえます。」
と話されました。

 私はこの言葉に深く胸を打たれました。それ以来私は思うのです。どんなに長生きしてももし御法義を頂かなかったならば、長生きがどれ程の価値があるのでしょうか。年と共に体力衰え身体の自由もきかなくなり希望も消えて、後に残るものは老いのさみしさと迫りくる死の不安だけです。これが70年80年働いて最後に与えられるその報酬ならば、人生まことにむなしいものではないでしょうか。

 山崎さんが長生きしたお陰でこんなに御法義がありがたく味わえると言われた言葉には、老いのさみしさも死の不安も消えて、永遠にみ仏に抱かれて生きる喜びと希望があふれています。ここにこそ生れ難い人間世界に生を受けた本当の意味があるのであります。

 親鸞聖人も長い真剣な求道聞法と、いろいろな人生経験を通して、こうした深い信仰体験を味わわれた時に、み仏の本願に遇ってこそ人間世界に生を受けた本当の価値がある、との確信から力強く無上命令を以て「如来如実のみことを信ずべし唯この高僧の説を信ずべし」と仰せになったのであります。

 私はこのお言葉を思う時に、長い間学んだ行信教校の講堂の正面仏壇の真上に掲げられた三条実美卿の筆になる「学仏大悲心」の横額と、木辺孝慈猊下の書かれた「唯信仏語・唯順祖教」の左右両側の縦額の文字が鮮やかにまぶたに浮かんでまいります。

 私達僧侶の真宗学研鑽の目標並びに門信徒の方々の聞法は、仏の大悲心を学び仰ぐほかありません。その姿勢はただ、仏語を信じ、ただ七高僧並びに宗祖親鸞聖人の教えに随順することであります。私は今ここにこの正信偈の稿を書きながら、行信教校の美しい伝統の中に良き師良き法友に恵まれて育てられた幸せを、しみじみ感ずるしだいです。