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第十八章 附録 浄土和讃六首のこころ

一 六首和讃について

 「輝く讃歌」と題して私たち真宗門徒が朝夕親様のお敬(うやま)いに、またいろいろな聞法の座で500年の長い間唱和してまいりましたお正信偈のお意(こころ)を、拙い筆で書き続けてまいりました。

 蓮如上人は、初めにも述べましたようにお正信偈に念仏と六首の和讃を加えて用いられるようになり、それ以来正信偈六首引として今日まで、その形式が守られてまいりました。

 私がこの小著を書こうとした動機は、お正信偈のおつとめの中にたとえむつかしいことはわからなくても、大体の意味を心得ておつとめできたらという願いからでした。従って、お正信偈に続いて浄土和讃六首のこころを書き加えて、この稿を結びたいと思います。

 親鸞聖人がお書きになりましたご和讃を集めますと500余首に上りますが、これらのうち、史実性のあるものを整理して浄土和讃、高僧和讃、正像末和讃と集約されて348首があり、その他は帖外(じょうがい)和讃の中におさめられています。今日おつとめに用いられているのはこの三帖和讃であります。

 親鸞聖人の畢生の作、『教行信証』は75歳の時ほぼ完成されました。これに続いて和讃の製作にかかられて、晩年の生涯をこれにかけられて和語の教行信証とも仰がれています。

 蓮如上人はお正信偈の後に、この和讃を六首ずつ繰(く)り読みして朝のおつとめに用いられるようになり、今も本願寺、地方の別院の朝のおつとめには(末寺においても)この形式が守られておりますが、門信徒の聞法の法座には、最初の六首の和讃を引いておつとめしていることは皆様も周知の通りであります。

 さてこのご和讃は親鸞聖人の独創的なものは少なくて主として、三部経並びに阿弥陀仏のことを説かれた他の諸経やまた、七高僧の御釈によって作られました。これは聖人がひたすら仏語を信じ、七高僧の御釈に随順するお心からでありまた、深い三部経のお意や、七高僧の御釈を愚かな私たちにわかりやすく心得させるために、称えやすい詩の形で作られたものであります。ここに晩年の聖人の私たちへの温かいお心配りが懐かしくしのばれます。

二 六首和讃の大意

 これから以下の六首の御和讃は浄土和讃といい曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』によって、阿弥陀如来の光明を讃嘆されたのであります。

  弥陀成仏のこのかたは
  いまに十劫をへたまへり
  法身の光輪きはもなく
  世の盲冥をてらすなり

 苦しみ悩む迷いの人々を、まるの他力で救うとの本願を成就したまい、ほとけの座について阿弥陀仏と名乗られてよりこのかた、十劫という長い時間がたちました。真実の法をさとられた御身より、放ちたまう輝く光明は極まりがなくて、迷いのくらき世を照らしたまうのであります。

  智慧の光明はかりなし
  有量の諸相ことごとく
  光暁(けう)かぶらぬものはなし
  真実明に帰命せよ 

 み仏の御身より放たれる智慧の光明は量(はか)りしることができません。一切の迷える人々は悉くこの智慧の光明の恵み受けないものはありません。真実の智慧の明かり持ち給う御仏にひたすら信順しなさい。

  解脱の光輪きはもなし
  光触(そく)かむるものはみな
  有無をはなるとのべたもふ
  平等覚に帰命せよ

 一切の迷える人々を煩悩の世界から解き放ちて、悟りを開かせ給う御仏の輝く光明は限りがなく、この光明のお育てを受ける者は、有の見、無の見という邪見を離れさせていただくのであります。平等のさとりを開かれたみ仏にひたすら信順しなさい。

  光雲無礙(むげ)如虚空
  一切の有碍にさはりなし
  光沢かふらぬものぞなき
  難思議を帰命せよ

 み仏の光明の働きは、ちょうど雲が大空を行くが如く遮(さえぎ)るものはないように、一切の迷える人々もこれを遮ることはできません。従ってこの光明の恵みに与(あずか)らないものはありません。凡夫の智慧で量り知ることのできないと尊い徳を持たれたみ仏にひたすら信順しなさい。

  清浄光明ならびなし
  遇斯光のゆゑなれば
  一切の業繋ものぞこりぬ
  畢竟依を帰命せよ

 煩悩の汚れを離れたみ仏の清浄の光明には並ぶものはなくて、念仏の人々はこの光明に摂護(しょうご)されますから、一切の業の束縛から解放されるのであります。だから一切の人々のまことの拠り所であるみ仏に信順しなさい。

  仏光照曜(せうえう)最第一
  光炎王仏となづけたり
  三途の黒闇ひらくなり
  大応供を帰命せよ

 み仏の光明は十方世界を照らし輝いて及ぶものはありません。従って阿弥陀如来を光の中の王と讃えられます。地獄・餓鬼・畜生の暗がりの世界までも照らしてこれらの衆生を救いたまうのであります。ゆえに全ての衆生から供養を受けられるみ仏にひたすらに信順しなさい。

  願以此功徳 平等施一切
  同発菩提心 往生安楽国

 願わくばみ仏から恵まれた此の功徳を以て、平等にあらゆる人々に分かちながら、浄土を願う心を起こして、安楽世界に往生致します。

三 正信偈のおつとめについて

 一、十月二十八日の逮夜にのたまはく。『正信偈』・『和讃』をよみて、仏にも聖人にもまゐらせんとおもふか、あさましや。他宗にはつとめをもして回向するなり、御一流には他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人の『和讃』にそのこころをあそばされたり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釈のこころを、『和讃』にききつぐるやうにあそばされて、その恩をよくよく存知して、あらたふとやと念仏するは、仏恩の御ことを聖人の御前にてよろこびまうすこころなりと、くれぐれ仰せられ候ひき。(蓮如上人御一代聞書第十一条p1235)

 一、のたまはく、朝夕、『正信偈』・『和讃』にて念仏申すは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、『正信偈』・『和讃』は、衆生の弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。(蓮如上人御一代聞書第三十二条p1242)

 今までたびたび申しましたように蓮如上人は真宗門徒のたしなみとして、お正信偈に六首の和讃を加えてその合間合間に念仏を挿入し、これを正信偈六首引きとして僧侶も在家の人々も共に朝夕のおつとめに、また聞法の座で、これを唱和するようにお定めになりました。これは当時においては全く画期的なことでありました。

 そうして上人はこのお正信偈をお勤めするについて心得違いの無いように細かに気を配ってお諭しになりましたのが上の二箇条の御一代記聞書のおことばであります。

 まず第十一条ではお正信偈をおつとめして、仏さまや親鸞聖人にまいらせるように思うことは大きなあやまりである。他の自力の宗教では、おつとめして仏にまいらせてその功徳で助けてもらおうと思うてするのであるが、浄土真宗ではそうではなくて三部経や七高僧の教えのお意(こころ)を明らかにして、他力信心をおすすめくださるのであるから、その意を頂いてありがたやありがたやと親鸞聖人の前で申し上げるのがお正信偈のおつとけする心持ちであるとお諭しになったのであります。

 次の三十二条のお諭しは、ある日、蓮如上人が坊主の方々(お寺をもった僧侶)に、お正信偈をおつとめして往生のたねになるかならないかとお訪ねになったときの物語りであります。上人の問いに対して、往生のたねになると答えた人もあり、また往生のたねにならないと答えた人もありました。その時蓮如上人はどちらも悪いと仰せになりました。

 このことを聞かれた皆さん達はオヤと不信の気持ちをお持ちになることでしょう。阿弥陀如来のご本願のお働き、即ち我に任せよ必ず救う、との仰せにおまかせする信心一つで救われていくのでありますから、朝夕お正信偈を読むことが往生のたねになると考えることは間違いであることは言うまでもありません。

 けれども蓮如上人は往生のたねにならないと答えた人々にも、それは悪いと言われたのはどういう訳でしょうか。真宗の教えから申しますと間違っていないはずであります。これを悪いと仰せになったのはどういうお心でしょうか。

 思うに往生のたねにならないと答えられたその言葉は間違ってはいませんが、その心持ちはお勤めの意義を否定し、見失っているから悪いと仰せになったのであります。そしてその意義を諭されたのが次の言葉であります。

 お正信偈御和讃は阿弥陀如来のおこころを明らかにして信心を取れよ、とのおすすめであります。従って阿弥陀如来のおこころにめざめ、信心を頂いて、ありがたやと喜ぶことが、お正信偈でおつとめする意義であります。このお正信偈のおつとめを通して私たちはいよいよ信心の溝(みぞ)をさらえ、味わいを深めさせて頂くのであります。

 この二箇条の蓮如上人のお諭しの心を頂いて某師が、お正信偈をおつとめすることは、親鸞聖人と私との対話であるといわれましたが、誠に味わい深い言葉であります。

 即ち、百二十句のお正信偈は聖人自身の信仰と、お釈迦様並びに七高僧の教えを以て、私への話しかけであります。その聖人の話しかけに私はお念仏を以てお答えし、次の御和讃はまた、聖人の語りかけ、次の念仏は私の応答であります。こうして六首引和讃が終り、私のよろこびと決意を聖人に申し上げるのが、「願以此功徳、平等施一切、同発菩提心、往生安楽国」のお言葉であります。

 近年お正信偈のおつとめが新しく見直されて、いろんな研修会、また大会等にも参加者一同によりお正信偈が唱和されるようになったことはまことに喜ばしいことであります。私たちは昔のようにお正信偈がどこの家庭でも唱和されることを心から念願いたします。そうしてお正信偈唱和の中にそのお心がより深く受け取られ味わう意味で、この小著が何等かの訳に立つことがあれば望外の幸せに存じます。

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