第十二章 曇鸞章

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還廻向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化

本師曇鸞は、梁の天子、つねに鸞(らん)の処に向かひて菩薩と礼したてまつる。
三蔵流支、浄教をさずけしかば、仙経(せんぎょう)を焚焼(ぼんじょう)して楽邦(らくほう)に帰したまいき。

天親菩薩の論を註解(ちゅうげ)して、報土の因果誓願に顕(あらわ)す。
往還(おうげん)の廻向は他力による。正定(しょうじょう)の因はただ信心なり。

惑染(わくぜん)の凡夫、信心発(ほつ)すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。
かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みな普(あまね)く化(け)すといえり。

 浄土真宗の七高僧の中、第三祖である曇鸞大師は、学徳すぐれた方で、梁の武帝は常に曇鸞大師の居住しておられた北方に向って、朝夕曇鸞菩薩と礼拝されました。

インドから中国に来られた高僧で、経典の翻訳家である菩提流支から浄土の教えを説いた『観無量寿経』(『浄土論』とも言われている)を授かり、それを読まれて、ああ我あやまれり、と不老長寿の道を説いた仙人の経を焼き捨てて深く浄土の教えにはいられました。

天親菩薩の『浄土論』を註釈されて、凡夫が阿弥陀仏の浄土に生れる因も、浄土に生れて開く果も本願の力によると顕わされました。また浄土に生れることも、浄土より衆生を救うためにこの世に還り来ることも本願他力によると説かれたのであります。

 従って浄土に正しく往生する正因は、ただ信心であります。よって煩悩に染まり、煩悩の中に明け暮れしている凡夫は、一度信心を頂いたならば、やがて浄土に生れて、生死の迷いがそのまま涅槃であるという仏のさとりを開くのです。必ず光り輝く浄土に生れたものは、あらゆる迷いの国の人々を普(あまね)く救うと仰せになりました。

一 仙人の経を焼き捨てて浄土の教えに

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦

 今から約1,500年前、北中国の雁門に誕生された曇鸞大師は、15才の時に出家されて四論宗に身を置いてひたすら学問の研鑽につとめられました。大師の学徳は年と共に輝き、梁の武帝粛王は常に曇鸞大師の居られる北の方に向って曇鸞菩薩と礼拝され、魏の天子は神鸞(じんらん)と称して、その徳を仰いで行かれました。この事を親鸞聖人は

  本師曇鸞大師をば
  梁(りょう)の天子粛王(そうおう)は
  おはせし方につねに向き
  鸞菩薩とぞ礼(らい)しける 

  魏の天子はとうとみて
  神鸞(じんらん)とこそ号せしか
  おはせしところのその名をば
  鸞公巌(らんこうがん)とぞ名づけたる

 曇鸞大師は或る時四十巻ある大集経(だいじっきょう)の講釈をしようと思い立たれましたが、僅か数巻終えたところで病気にかかられました。その為この仕事をしばらくおいて静養につとめられました。

 或る日野外に出られた時、空を見上げると、果てしない大空を白雲が悠々と流れています。この天地自然の悠々さに心うたれた曇鸞大師は、人間は如何に立派な事業を成し遂げようとしても、先ず命が大切である。命短ければどんな立派な仕事でも完成することは出来ないと深く心に感じられました。

 当寺江南の上海のあたりに陶弘景(とうこうけい)という仙人が居て、不老長寿の道を説いていました。その頃中国は黄河の流域と揚子江の流域と南北に別れていて相互に行来(ゆきき)することは出来ませんでした。これを犯せば極刑に処せられます。曇鸞大師は、道を求める為にあえてこの厳しい禁を破って、陶弘景を訪ねられました。

 一説によると、忽ち捕らえられて梁の武帝の前に引き出されました。武帝は大師を一目見るなり、その徳に打たれて唯人(ただびと)ならずと深く感銘し、丁重にもてなし、陶弘景の許に送り届けられました。北支那に帰られた後も鸞菩薩と礼拝されたと伝えられています。

 3年間、陶弘景の許で仙人の道を学ばれましたが、学徳兼備の英才を謳われた曇鸞大師は悉くこれを学び尽くされました。師匠の陶弘景は

「あなたはもはや学ぶべきものは学びつくされました。これ以上私の処に居られても、もう学ぶべきものはありません」

と言って、別れの形身として不老長寿の道を説いた仙人のお経である、『衆醮儀(しゅしょうぎ)』を授けられました。

 曇鸞大師は厚く礼を述べて故郷に向かわれました。当時都は洛陽に在り、ここまで来られた時に、インドから皇帝の招きで中国に来て、お経の翻訳と伝道に従事しておられた菩提流支に逢われました。

 その時曇鸞大師はやや得意気に、

「私は仙人陶弘景について、不老長寿の術を学び、そのお経を授かりましたが、仏教ではこれ以上の長寿の道を説いた経典がありますか。」

とさし出されますと、菩提流支は手にしながら開こうともせずそのままパッと大地に投げ返して、

「お前は若くして仏門に入り、四論宗を学び大集経の講釈をしているから少しは仏教が解っていると思ったら全然何も解ってはいないではないか、今更何を血迷ったことを言っているのか。」

と鋭く叱り、これを読んで見よと『観無量寿経』、また一説に天親菩薩の『浄土論』とも言われていますが、ともかく浄土に往生して行く教えを説かれた浄土の経典を渡されました。これを読まれた曇鸞大師は「ああ我あやまりて」と仙経を焼き捨て、更に今まで学んだ四論宗をも捨てて、浄土の教えに転向し深く帰依して行かれたのです。それは曇鸞大師51、2才の頃といわれております。

 私はこの曇鸞大師の足跡を思う時に、次の三つの事柄に心が引かれます。

 一つは私達が頂いている他力のみ教えは、こうした先人の命をかけて求め聞き開かれた道であります。故に私達は聞法の座に連なる時は襟を正して真剣に聞かねばなりません。

 二つには曇鸞大師が陶弘景の許で3年の歳月を費やして求められた不老長寿の道は、総(すべ)ての人々が願い求めている道であります。それを惜しげもなく捨てて、浄土のお念仏の道に転入して行かれたのは何によるのでしょうか。

 永遠の世界、即ち浄土に往生することを外にして、唯この世だけの不老長寿を求め、それがたとえ叶えられても、私達の死の問題が解決されたことにはなりません。死出の旅路を前にして、この世の逗留期間が少し延びたに過ぎません。

 その私達の姿は「糞中(ふんちゅう)の穢虫(えちゅう)、居(きょ)を争うて外の清きを知らず、残水の小魚、餌を争うて水の渇することを知らず」との状態に外ならないでしょう。ここに目覚められた曇鸞大師が、仙人のお経を焼き捨てて浄土の教えに転入させられたのであります。

 三つは、人間は年と共に思考力に柔らかさを失い、かたくなになります。けれども曇鸞大師が50を過ぎてそれまで学んで来られた聖道門自力の教えである四論宗を捨てて、他力の念仏に転向されたのは、如何に青年のような若々しい求道心を持って、ひたすら真実の道を求めて行かれたかをよく物語っています。

二 曇鸞大師の勲功=他力を明かにする

天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還廻向由他力 正定之因唯信心

 曇鸞大師の輝かしい勲功は、菩薩の智慧をもって書かれて、深い深い意味を湛えた天親菩薩の『浄土論』を註釈して『往生論註』二巻を著わし、その正意、即ち本願他力を明らかにされたことであります。このことを親鸞聖人は和讃に

  天親菩薩のみことをも
  鸞師ときのべたまはずば
  他力広大威徳の
  心行(しんぎょう)いかでかさとらまし

 即ち天親菩薩の説かれた尊い浄土論も、もし曇鸞大師の註釈がなかったならば、私達はその正意を領解(りょうげ)することは出来ず、従って他力の信心を頂くことは出来なかったでしょうと。

 それでは曇鸞大師は『浄土論』のお心をどのように私達にお説き下さったのでしょうか。『浄土論』には浄土を願生する菩薩が修行して仏のさとりの果を開くために五念五果の道が説かれています。

 それは此の土において礼拝、讃嘆、作願、観察、廻向という五念門、即ち五つの行を修行して、浄土に往生し、五念門行の果徳としての近門(ごんもん)、大会衆門(だいえしゅもん)、宅門(たくもん)、屋門(おくもん)、薗林遊戯地門(おんりんゆげじもん)という五つの果を開くのであります。これはさとりの風光を家にたとえてお説きになったのであります。

 即ち近門とはさとりの門に入ることであり、大会衆門とはさとりの人々の仲間に入ること、宅門とはさとりの家の玄関に入ること、屋門とは家の座敷にはいること、薗林遊戯地門とは座敷を出て庭園に遊ぶように楽しみつつ思いのままに衆生救済に向うことであります。

 菩薩はこのようにきびしい五念門の修行をし、五つの果を得て、仏のさとりの果に向うのでありますが、曇鸞大師はこうした修行をされた菩薩は、実は法蔵菩薩であり、法蔵菩薩はこの修行によって成就した功徳の全体を私達に与えて下さるのであると明かされました。

 従って浄土に生れ行く因も、浄土で恵まれる果も、また浄土に往生することも、浄土より衆生救済に向う還相(げんそう)の働きもすべて本願力の恵みであると開顕されて他力の救いを鮮明にし、初めて他力救済の原理を明確にされたのであります。

 すべてが本願他力の恵みによるならば、私の方にはこの本願他力を素直に信受する信心の外ありません。このことを今「報土の因果を誓願に顕し、往還の廻向は他力による、正定の因は唯信心なり」と仰せになりました。これを正信偈意訳には

  浄土に生れる因も果も 往(ゆ)くも還(かえ)るも他力ぞと ただ信心をすすめけり

と詠われています。ここで私は従来も、しばしば他力本願に触れてまいりましたが、これをまとめる意味で今一度おさらいしたいと思います。

 今日マスコミでも、また一般社会でも、自分が努力せずして、人のおかげで甘い汁を吸う場合を表現するのに、しばしば他力本願という言葉を使い、また他力本願では駄目だ、自力本願でなければならないという、言葉にならない言葉を平気で使っています。

 このように宗教上の大切な言葉を濫用(らんよう)するところに、日本人の宗教的知性の低さを感ずるのであります。他力本願をこうしたあやまった意味に用いるようになったのは昭和の初め、第一次欧州大戦の反動として世界不況の旋風が起って、日本もその中に巻き込まれて喘いでいる時、朝鮮総督府の長官であった斉藤実氏が総理に迎えられ、不況を克服する為に自力更生という言葉を掲げて運動を展開されました。その時口がすべったか自力更生の対句として他力本願ではいけないと言われました。

 それ以来今日までこの言葉が濫用されているのであります。けれども他力本願という言葉は浄土真宗にあっては大変大切な宗教用語であります。親鸞聖人は「他力というは如来の本願力なり」と仰せになっています。即ち相対的な人の力ではなくして、人間を超えた大いなる仏の力であります。このことを先ず私達ははっきり心に銘記しなければなりません。

 この本願力の働きを聖人は更に「本願力とは尚磁石の如し」と仰せになりました。八百年前科学の未発達の時代にこうした表現をしておられることについて、今日心ある人々は驚きの眼で見ています。

 磁石は鉄を引きつけ、鉄の中に磁気が入り込み、鉄全体を磁石に変えて行きます。従ってその鉄は又他の鉄をよく引きつけます。

 本願力は遠い仏の手元に止っているのではなく、私の上に働いて私の命、力となりきるのであります。そこに私が迷いを破って仏の世界に入る道理があるのです。先に述べたとおりに、闇は闇によっては破れません。氷は氷で溶けません。闇を破るのもはあくまで光であり、氷を溶かすものは熱であります。

 私達はこの仏の本願力の恵みによって仏の命を我が命とし、仏の力を我が力として、悩み果てしない迷いの世界を力強く越えて、仏のさとりの世界に入らして頂くのであります。これが他力本願の宗教であります。

 先に述べましたように中野藤助さんが六年余りの闘病生活の中にあって、いろんな迷信の誘惑に心を動かすことなく、ひたすら闘病につとめられて、病気を克服され、他力本願に支えられて生き抜かれた姿に頭の下る思いがすると共に、他力本願が今現に私の上に躍動する姿を感ずるのであります。

三 信心の利益

惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化

 第二節で浄土に往生していくことも、浄土のさとりを開くこともすべてが本願他力の働きであるから、救われる私達の方はただ本願他力に素直に信順する信心こそ、まさしく往生の正因であると説かれましたので、ここからはその信心の利益をお述べになるのであります。

 この四句のお意(こころ)は、煩悩が身に染(し)みついて、煩悩の中にあけくれしている凡夫も、一度信心を頂いたら、やがて浄土に生まれて仏のさとりを開かして頂き、そしてこのみ仏の光の国に生れたならばそのまま、あらゆる迷いの世界にある人々を救う働きをさせて頂くことをお諭しになったのであります。

 今日、浄土真宗の中で、時々死んだ先のことは解らない。そんな夢のようなことを言っても、現代の人々は受けつけない。真宗の救いは現在今の救いであって、それより他にないという人があります。これは今までの真宗の説き方が、死後のことに重点が置かれて、現在の救いを軽視して来た一つの反動とも思われます。

 しかし現在だけの救いが真宗の救いであるということもまた片寄った考え方と言わねばなりません。親鸞聖人は往生について、はっきりと二つの往生を説いておられます。

 一つは即得往生、二つには難思議往生であります。即得往生とは信心頂く時、み仏の光明に摂取されて、必ずみ仏の世界に生れて行く身に定まり、そこに大きな安心と喜びに恵まれ、苦悩多い人の世を、お陰様と心明るく浄土に向って進み行く姿であります。即ち正定聚の位に入ることです。

 難思議往生とは浄土に生れ、無明の闇が晴れ、煩悩を永く断ち、仏のさとりを開くことであります。この事を蓮如上人は、

 浄土真宗は二つの利益がある。一つは正定聚でこれはこの土の利益、二つは滅度(仏のさとり)即ち彼の土の利益であると明確に諭されています。私は浄土のさとりの風光は知るよしもありませんが、浄土に生まれゆく喜びは、現実の中にはっきりと味わうことが出来ます。浄土に生れる喜びがあってこそ、現在の救いがあきらかになるのであります。

 次に浄土に生れ、仏のさとりを開いた時に、迷える世界の人々を救う働きが展開されるのであります。これを今、「諸有衆生皆普化」と仰せになりました。これは先程からたびたび述べました還相廻向(げんそうえこう)の働きであります。

 この還相廻向についても、最近の学者の中に、還相の働きとは信心頂いた者の生活の上にあると説き、これに追従する僧侶も中にはありますがこれも親鸞聖人のお心に反するものと言わなければなりません。信心頂いた喜びから「世の中安穏なれ、仏法広まれ」の願いの中に行動することを常行大悲(じょうぎょうだいひ)の利益として『教行信証』信の巻の現生十種の益の中に説かれています。従って、これは信後の生活の中に起る働きであります。

 それに対して還相廻向の働きは『教行信証』証の巻に仏のさとりを開いた者は恵まれる働きとして説かれていることによっても明白であります。

 こう申しますとこのような還相の働きで衆生を救済する事は夢物語のようで、そんなことを今の時代に言っても現代人には通用しないと言う人があります。これについて私には誰が言われたか、「往相は還相に支えられて」という言葉が頭に浮かんで来ます。私が本願を信じ念仏しつつ浄土に向かう姿は数知れぬ還相の方々に導かれ行く姿ということでしょう。

 私の本性は仏に背き、念仏に背いた生き方の他ありません。それが浄土への方向に転換されたということは容易なことではないのです。その容易でないことが今現になされている。ここに数知れぬ還相の方々の恵みが味わえることでしょう。

 親鸞聖人は「偶々(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と仰せになり、また蓮如上人が「宿善めでたしというは悪し。当流には宿善有難しと言うべし」と仰せになったのはこの意です。宿縁宿善とは過去世で仏法を聞く因縁に恵まれているということであります。

 昭和46年7月1日、鹿児島実業高校教諭東兼二氏、トキさん夫妻が長男哲郎君(10才・小4年)を水難事故で亡くされました。その悲しみから何とか立ち上がろうとして、あちらこちらのお寺の先生を訪ねて歩かれました。たまたま鹿児島西本願寺別院を訪ねられた時、私が一泊二日の研修会に行っておりましたので、別院の受付の職員の方の要請で、一時間程面接しました。聞けば、私の町内に最近移住されてお東の清浄寺の門徒になっておられました。

 それ以後何回となく訪ねられ、また法義についての文通を重ねて来ましたが、その年12月1日、命日に東氏夫妻が花束果物等を持って水難事故の浜辺を訪ねられました。私はそれを聞いて両親の心情に深く思い致してなぐさめの手紙の中に次の歌を書き添えて送りました。

  〇悲しみのうつろの中にみ名呼べば 吾子の面影 胸に迫りて
  〇しろしめすほとけいますと知りつゝも 悲しき時は 悲しかりけり
  〇運命の海に向つていとし子を 呼べどむなしく 消えて答えず
  〇荒海に花をたむけて吾子の名を 呼べどとぎれて 三度(みたび)つづかず (賞雅)

明けて正月、お礼の返事の中に、奥さんの次のような歌が記されていました。

  〇金色に輝く夕日 今沈む 吾子(あこ)住む国を 母はおがまん
  〇海に来て 声を限りに吾子の名を 呼んで空しい たそがれの波
  〇吾子の名を 呼んで捧し花束も 波間に消えて 年の暮れ行く
  〇師の手紙悲しみ沈む元旦に みおやのお慈悲 心晴れ行く (東トキ)
 
こうした中に、或る日私を訪ねられて、

「先生、あの哲郎は今どんな世界に往っているでしょうか。ある先生にうかがったら、子供で罪が浅いから悪い所には往ってはおられませんよと言われるし、もう一人の先生は、子供といっても信心頂けていないからよい所(お浄土)には往っておられませんと言われました。どちらも真宗のお寺の先生です。どちらでしょうか。先生の口からはっきり教えて下さい」

と言われるのです。私は大変大きな問題と思い

「仏様の前でよく話し合いましょう」

と庫裡(住職住宅)の方から本堂に行き、そこでいろいろ話し合いました。

 子供を亡くした親の悲しみは、子供を亡くした親のみが知る世界であります。そのことを思う時に、この方の子供の行方を尋ねられる母の気持が痛い程に胸に響いて来ます。

 真宗の教えから申しますと、信心が頂けないものは、お浄土に詣れないということも間違いではありませんが私はそれを口にする事は出来ませんでした。というのは、その時親鸞聖人の言葉が頭に浮かんだからです。

 教行信証のはじめのお言葉の中に「浄邦(じょうほう)縁熟(えんじゅく)して、調達(じょうだつ)闍世(じゃせ)をして逆害(ぎゃくがい)を興(こう)ぜしむ。浄業(じょうごう)機彰(あらわ)れて釈迦、韋提(いだい)をして安養(あんにょう)をえらばしめたまえり、これすなはち権化(ごんけ)の仁(にん)、齊しく苦悩の群萌(ぐんもう)を救済(くさい)し、世雄(せおう)の悲、まさしく逆謗(ぎゃくほう)闡提(せんだい)を恵まんと欲(おぼ)す」とあります。

 この意はお釈迦さまを幾度か殺そうとし、また阿闍世太子をそそのかして、父の王を殺害せしめ、母を七重の牢獄に閉じこめさせた、正に地獄の底から這い出て来たような提婆も、またこの提婆の扇動によって五逆の罪(地獄におちる悪業)を犯した阿闍世太子も、愚痴多い愚かな凡夫の韋提希夫人も、さらに耆婆、月光、行雨等王舎城の悲劇をとり囲む人々も、私達にお念仏の教えを聞く機会を造るためにお浄土から現れた還相(げんそう)の人々であるという意味であります。それを思った時に、ただ一つの教義だけでさばくことは出来ませんでした。そこで私は、

「哲郎君がどんな世界に往っておられるかは私には解りません。それが解るのは仏様しかないでしょう。たとえばどんな世界に往っていてもみ仏の大悲の光明は、必ず哲郎君の上にも注がれていることでしょう。哲郎君の行方を尋ねる前にあなたは哲郎君の死をどう受けとめられるか、それが一番大切なことではないでしょうか。」

と申し上げました。

「ただ悲しい悲しいと愚痴の涙の中に明け暮れするか、あなたのお陰で、うかうかして居たお母さんが真実のみ仏のお慈悲に目覚めさせて頂けた、と感謝して行けるか、そこに問題があるのでしょう。何時かお話しした通り、和泉式部が我子、小式部を亡くし、その悲しみを縁として、み仏の道を聞き開いていかれました。そこに詠まれた歌が『夢の世に あだに果敢(はか)なき身を知れと 教えて帰る 子は知識なり』というものでした。哲郎君の死を無駄にすることなく、しっかり御法義を聞いて下さい」

と話しました。静かに涙をぬぐいながら

「先生、有難うございました」

と言われた情景が今も鮮かに私のまぶたに浮びます。

 吉川英二先生が「我以外は皆我が師なり」と言われた言葉を思い合わせ、私がお浄土へ向う往相の中にこそ、還相の方々の無限の働き、導きが感じられます。

 次にせっかくお浄土に参ったのに、またお浄土から迷いの世界に出て行くのですかという素朴な疑問をした人がありました。

 浄土に往生した人々の還相の働きとは、身は浄土にありながら、十方世界にその姿を顕わし、一念の短い間に同時にその働きを普く顕わして至らざる所はないのであります。これを不動而至(ふどうにし)と説かれています。たとえば天上に輝く月は天上にありながら、同時にあらゆる所の水に影をうつすようなものであり、これがさとりの世界の風光であります。