第二章 たれがための本願

法蔵菩薩因位時 在世時在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方

法蔵菩薩因位(いんに)の時、世自在王仏のみもとにましまして、
諸仏浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立して、希有の大弘誓を超発せり。
五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。

 阿弥陀如来が菩薩の位の時に法蔵と名告(なの)り、世自在王のみもとで、その導きによりて、あらゆる仏の浄土の成り立つ因(もと)、その国の人々のよしあしをよく御覧になって、生きとし生けるものをまるの他力で救うという無常の勝(すぐ)れた本願、世に超えた稀なる大きな誓いを起こされました。

 五劫の永い間の思案の末に、四十八の願を起こし、念仏一行を選びとられました。更に重ねて、必ずさとりの道に至り、智慧も能力も貧しき者を救い、我が名を十方世界に聞かしめようと誓われました。

一 正しき信仰と盲信・迷信

 よく言われる言葉に、「鰯の頭も信心から」、「苦しい時の神だのみ」というのがあります。これはどんなものでも信心すれば有り難く思われ、また平素不信心の人でも、不幸つまづきに会うと神仏にすがろうとする人間のおろかさ、弱さを皮肉った言葉であります。

 これらはいずれも盲信、迷信と言われるもので、盲信とは、道理に外れたものを信ずることであり、迷信とは間違った道理を信ずることで、これらはただ気休めに過ぎません。そこにほんとうの救いはなくて、かえって不幸の落とし穴さえ待っています。

 大分前、新聞の読者の声に、迷信を追放しましょうというこんな投書がありました。それは徳島県であったことですが、ある娘さんの縁談が決まりました。お母さんが娘のために買い物に行き、帰り道駅前で易者にこの縁談を占ってもらったところ、凶と出ました。それをまともに信じた母親は、せっかくの話を強引に断りました。娘さんは悲観して、そのため入水自殺をしたというのです。これに類した話は世間にずいぶんたくさんあります。正しい信仰とはあくまで、正しい因縁因果の道理に立つものです。

 親鸞聖人が今、お正信偈の初めに自分の信仰をお述べになって、我にまかせよ必ず救うと呼び給うみ仏に、素直に「ハイ」と従い、おまかせしますと仰せになりましたのは、ただ救う救うというかけ声だけではなくして、み仏にそれだけの力と準備が出来上がっている。即ち救われる正しい道理のあることをお釈迦様のお言葉と、七高僧のお指図によって讃歎されたのが「法蔵菩薩」以下「唯可信之高僧説」までのお言葉であります。

 その中で、「法蔵菩薩」より「難中之難無過斯(なんちゅうしなんむかし)」までの21行42句のお言葉は、お釈迦様のみ教え、即ち大無量寿経によって作られたものですから依教段(えきょうだん)と言います。

 次に「印度西天之論家」より最後の「唯可信之高僧説」まで38行76句は、七高僧の御釈に依られていますので依釈段(えしゃくだん)と申します。

 今初めにかっかげました「法蔵菩薩」以下「重誓名声聞十方」まで四行八苦は救いの根本である阿弥陀仏の本願建立を讃歎されたものであります。このほんがんによって生きとし生けるものの救いの道が開かれました。

二 法蔵菩薩の発願修行

 親鸞聖人は、生きとし生けるものの救われ行く正しい道理として、大無量寿経により、法蔵菩薩の発願建立を高らかにうたわれました。それは苦悩の衆生の救済の原理が法蔵菩薩の発願修行にあることを確認されたからであります。今この事を理解する為に、お釈迦様が大無量寿経によって示された物語を紹介しましょう。

 今を去ること計り知れない遠い遠いいにしえに、錠光(じょうこう)如来というみ仏がお出ましになって数限りない衆生を救済されて、さとりの世界にお還りになりました。それはお釈迦様がこの世にお出ましになって、衆生救済の聖業(しょうごう)終りてお浄土にお還りになったごとくであります。この錠光如来に次いで五十一のみ仏が次々にお出ましになり、それぞれの衆生を救われました。

 五十三番目に出られた方を世自在王仏と申します。この時一人の国王がありました。世自在王仏の説法を聞いて感動し、直ちに王の位を捨てて出家されて、法蔵と名乗られました。そうして世自在王仏の勝(すぐ)れた威徳を讃嘆されて、

  光かがやくかおばせよ みいずかしこくきわもなし
  炎ともえてあきらけく ひとしきもののなかりける

  月日のひかりかげかくし 宝の玉のかがやきも
  みなことごとく蔽(おお)われて さながら墨のごとくなり

  世自在王のおんすがた 世に超えましてたぐいなく
  さとりのみこと高らかに あまねく十方(よも)にひびくなり (讃仏偈意訳)
  
と仰せになり、一切の迷える衆生を救おうという深くして堅い志願を起こされました。世自在王仏はこの法蔵菩薩の志をみそなわして、それは大海の水を汲み干して、妙宝を探し求めるにも似ていることであるが、長い長い時間をかけ、撓(た)ゆむ事なく努力精進するならば、その志願を叶えることが出来るであろうと仰せになり、さらに神通力を以て法蔵菩薩の為に二百一十億の諸仏の浄土を現し見せられました。

 法蔵菩薩はその一々の諸仏の浄土の成立のもとや、また諸仏の浄土に遊ぶ人々の善し悪しをつぶさに御覧になって、ここに総(す)べての人々をまるの他力で救おうという無上の素晴らしい願い、世にも稀な尊い誓いを起こされて、五劫という永い永い思案の末に、善きを取り悪しきを捨てつつ、四十八の願をえらびとられました。

 そうしてその一つ一つの願に、もしこのことを成し遂げることが出来なかったならば正覚を取らない、即ち仏にはならないと誓われました。これは衆生救済のために自分のさとりをかけた堅い誓いであります。

 法蔵菩薩はこの四十八願を建てられた次に、更に私が建てた超世の願を必ず成就して自ら無上道をさとり、もろもろの智慧も能力も貧しき人々を救い、我が名をあらゆる国々に聞かしめようと誓われました。それより法蔵菩薩はこの願いを成し遂げるために兆載永劫(ちょうさいようごう)という永い永い修行を始められ、その修行を見事に完成して自らさとりの仏の座につき阿弥陀仏と名乗られました。ここに私達の救いの道が円(まど)かに成就されたのであります。それは、今を去る十劫のいにしえでありました。このことを親鸞聖人は和讃に

  弥陀成仏のこのかたは
  今に十劫をへたまえり
  法身の光輪きわもなく
  世(せ)の盲冥(もうみょう)を照らすなり

  四十八願成就して
  正覚の弥陀となりたまう
  たのみをかけし人はみな
  往生必ず定まりぬ

と詠われました。私達の為に建てられたこの法蔵菩薩による発願修行の物語りは、昔の人々は仏様(お釈迦様)のお言葉であるから、また親鸞聖人の仰せであるからと、何の疑いも持たず素直に信じて行かれました。

 しかし合理主義、立証主義の科学の洗礼を受けた現代の人々には、そんな事は有り得ないと否定して、とうていこのままでは信ずる事は出来ないでしょう。現代人の宗教離れの原因の一つは実にここにあると言わなければなりません。

 よくお寺参りを勧めると、お浄土があると言っても誰も見て来たものがないからという答が返って来るのもその為であります。ではこの物語りをどう理解すればよろしいのでしょうか、そこを明らかにすることが今日最も大切なことであります。

 これについて宗門大学の某教授が、或る研修会の席で、法蔵菩薩の物語は神話だと言って問題を起こされた事があります。神話とは古代の人々が素朴な心情、願いから語り伝えられた物語りでありますので、従って法蔵菩薩の物語りを神話と見ることは勿論間違いであります。ではこの法蔵菩薩の物語りを私達はどう受け止めればよいのでしょうか。次の節でこの問題を考えて見たいと思います。

三 歴史的事実と宗教的真実

 この法蔵菩薩の発願修行の物語りは先ず結論から言いますと、言うまでもなく、歴史的事実ではなくて、歴史を超えた宗教的真実であります。ここで見落としてはならないことは、事実と真実とは違うということです。たとえば、夫婦喧嘩は事実であっても、それは夫婦の真実のあり方ではありません。又事実とは、いろいろな因と縁によって現れた一つの現象でありますが、真実とはそうしたものでなくて、真実に背き、真実に背を向けたものに働いて、元の真実に引き戻そうとする力であります。

 たとえば子供がもしあやまった道に走ろうとした時、親の真実は或る時にはきびしい愛の鞭となり、或る時は悲しみの涙となり、或る時は切々としたいましめの言葉となって、我が子を真実の道に引き戻そうと働き続けます。これが真実であります。

 今私の生きざまはどうでしょうか。仏教には真如背反(しんにょはいはん)と説かれています。それは私達は真実即ち真如に背き、真実そのものであるみ仏に背を向け、逃げよう逃げようとしていることであります。そのことは誰しも明るい家庭を望み、和やかな社会生活を願い、世界の平和を念じていますけれども、私達の現実はややもすれば家庭に波風が立ち、また上べは平和な町平和な村と見えていてもその裏には、常に小さなもめ事が繰り返されています。また人類始まって以来、戦争の悲惨さを、数知れず体験しながら、地上に戦争は絶えず、口に平和を唱えながら、軍備拡張、軍事大国の方向に不気味な動きを見せていることによっても知られます。

 その原因は、お釈迦様は真実の智慧を持たない無明から起る自己中心の心、即ち我執(がしゅう)煩悩によるものと説かれました。この我執煩悩によって争いを繰り返して、苦悩の中にさまようています。この姿を迷いと説かれました。

 そうした私を、争い苦しみ無きまことのさとりの世界(涅槃)へ導き入れようとするのが宗教的真実であります。それは、迷いの凡夫の私を、仏にすることであります。

 この宗教的真実を法性・仏性とも、真如・一如とも説かれて、その働きをお釈迦様は大無量寿経に具体的に法蔵菩薩の発願修行と表されました。すれば法蔵菩薩の発願修行は宗教的真実、即ち真如の働きの外ありません。

 親鸞聖人がこの真如・一如の働きを讃えて、この一如より形を現して、法蔵菩薩と名乗り給いてと、お述べになり又和讃(浄土和讃)に

  無明の大夜をあわれみて
  法身の光輪きわもなく
  無碍光仏としめしてぞ
  安養界に影現(ようげん)する

と詠われたのはこの意(こころ)であります。この如来の真実は、科学を超えた世界であって、私達の経験的な知識で理解できるものではありません。それはみ仏の真実の光に照らし出されて、深く自己を内省する心、即ち宗教的内観によって領(りょう)解(げ)出来る世界であります。それは取りもなおさず、如来の真実によって呼びさまされて、心の底からうなずける境地なのです。おかる同行が

  〇おかるおかると呼びさまされて、ハイの返事も向うから、
  〇聞いて見なんせ真(まこと)の道を、無理な教えじゃないわいな、
  〇真(まこと)聞くのはお前はいやか、外に望みがあるぞいな

と鮮やかに詠っています。

 経験的な知識を超えた如来の真実にうなずくことの出来るすぐれた能力を持つところに、人間の尊さがあるのです。昔より人間が万物の霊長と言われる理由はここにあります。

 私はこれについてかって恩師山本仏骨先生からこんなお話を聞いたことがあります。先生が毎月或るお寺の宗教講座に行っておられました。この講座によくお参りされる婦人が訪ねて見えて、こんな対話をかわされました。

「先生、今の学校の先生は困ったものですな」
「どうされたんですか。」
「私の家の離れに独身の女の先生が下宿しておられます、日曜日でひまそうにしておられましたので、今日はこれからお寺で、立派なお坊さんのお話がありますが、あなたも聞きに行かれませんか、と勧めましたら『ええありがとう、でも私は目に見えないものは一切信じないことにしています。』こんな事を言われるのですよ」
「それは賢そうな顔をした馬鹿の言うことだ。」

 私はこの対話を聞いて、先生の鋭い一語に胸のすくさわやかさを覚えました。

 その女の先生の気持は、自分達のような高い教育を受けた者は、そんな非科学的なものは信じない。宗教はつまり学問、教養の低い人が聞くものだという気持でしょう。そこを先生は賢そうな顔をした馬鹿と言われたのです。即ち、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、五官に感ずる世界しか解らないのもは、犬畜生の部類であります。五官を超えた、また経験的な知識を超えた永遠の真実の世界を感じ、それにうなずけるところに、人間の特質があるのです。即ち宗教を持つところに人間のすばらしさがあると言わねばなりません。

 真実ならざる我執煩悩によってさまよい苦しむ私があればこそ、宗教的真実即ち如来の本願が起こされたのであります。親鸞聖人は和讃に(正像末和讃)

  如来の作願(さがん)をたずぬれば
  苦悩の有情をすてずして
  廻向を首としたまいて
  大悲心をば成就せり

と詠われました。更に思えば、このみ仏の救いを展開せしめたものこそ、外ならぬ我執煩悩の業によりさ迷う私でありました。聖人は歎異抄に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば偏(ひとえ)に親鸞一人が為なり、さればそれほどの業を持ちける身にてありけるを助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と仰いで行かれました。

 今ここにお正信偈に讃嘆された法蔵菩薩の発願修行は他が為でない、全く私の為でありました。それはこの本願を外にして生と死を超えて生き抜く道がないということであります。すなわち浄土があるかないかと論ずる前に、浄土なくしては生きられない自己に目覚めることです。それは聞法を通して、如来の真実に触れて信知する世界であります。