第九章 七高僧の功績 

印度西天之論家 中夏日域之高僧
顕大聖興世正意 明如来本誓応機

印度西天の論家(ろんげ)、
中夏(ちゅうか)日域(じちいき)の高僧、
大聖(だいしょう)興世(こうせ)の正意を顕わし、
如来の本誓、機に応ぜることを明かす。

 インドに出られた龍樹(りゅうじゅ)菩薩、天親(てんじん)菩薩の論師、中国に出られた曇鸞(どんらん)大師、道綽(どうしゃく)禅師、善導(ぜんどう)大師、日本に出られた源信(げんしん)和(か)尚(しょう)、源空(げんくう)上人等の優れた高僧方は、何れもお釈迦様がこの世に出られた正意を顕わされました。

 さらにお釈迦様によって説かれた阿弥陀如来の本願の誓いこそ、末の世の私達凡夫に最もふさわしい教えであることを明かされたのです。

一 二千年にわたる正法の伝承

 今まで述べて来ました依経段は、私を救い給う本願の確かさをお釈迦様の言葉、即ち無量寿経、ならびに観無量寿経・阿弥陀経によって讃嘆されたのであります。

 「印度西天之論家」より最後の「唯可信斯高僧説」まで38行76句は、七高僧の御釈によってさらに弥陀の本願を讃嘆されました。今この4句はその序文の言葉に当り、七高僧に共通した功績をお述べになります。即ち七高僧何れもお釈迦様の世にお出ましになった正意は、弥陀の本願を説くことにありとあらわされ、その本願こそ凡夫相応の教えであることを明らかにされました。

 ここで話は少し横にそれますが、「大師は弘法に奪われ、開山は親鸞に奪われる」という言葉があります。天皇より大師号をおくられた高僧は沢山ありますが、今日お大師様といえば弘法大師を指し、一宗を新しく開いた高僧を開山と申しますが、今日では御開山と云えば親鸞聖人に限られています。このように普通名詞がこの方々のお徳によって固有名詞に変わりました。

 親鸞聖人は一宗の開祖、御開山と後世の人々から仰がれておられます。それは一宗の開祖としての条件を充分に具えておられるからです。一宗開宗者の条件とは次の四つであります。

 一、宗名
 二、拠り処の教典
 三、教法の継承者
 四、独自の教えの発揮

 これを親鸞聖人についてみますと、宗名を浄土真宗と名乗られました。真宗教義のよりどころとなる教典は浄土の三部経、即ち無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と定められました。

 教法の継承者は、先に述べました龍樹菩薩、天親菩薩(インド)、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師(中国)、源信和尚、源空上人(日本)の七人の高僧です。

 法門の発揮とは、今までの高僧方が顕わされなかった独自の教えを顕わすことであります。即ち本願他力による往生浄土の道を、法然上人は念仏往生と示されました。この教えを正しく継承しながらそれを信心正因、称名報恩と展開されたところに、親鸞聖人の功績があります。これを法門の発揮と言います。

 このように聖人は一宗を開かれた開祖としての資格を充分具えておられますので、後の人が聖人を浄土真宗の御開山として仰ぐのは当然であります。

 けれども聖人は一宗を開こうとする意志は毛頭ありませんでした。それは次の言葉によっても明かです。

一、弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば親鸞が申す旨、またもてむなしかるべからず候か。(歎異抄第二章)

二、親鸞さらに珍らしき法を弘めるに非ず、ただ如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。(御文章)

 この歎異抄また蓮如上人の御文章に引用されている親鸞聖人のお言葉の意は、阿弥陀如来の本願のまことが釈迦如来の説法と顕れ、その説法が善導大師の教えとなり、その教えを承けられた法然上人のお言葉を親鸞聖人が素直に頂いて伝えるばかりである。

 この意を更に要約され、親鸞はさらに特別変わった教えを広めるのでなく、釈迦如来の説かれた教法を親鸞自身が頂き、その頂いた喜びをあなた方にお伝えするばかりですと。

 この言葉によって明らかに知られるように、親鸞聖人には終始、一宗開宗の意志はなく、あくまで謙虚な聞法の行者として歩み続けられたのです。従って親鸞聖人は開宗の意志なき開宗者という言葉が最もふさわしいと言わねばなりません。

 思えば、お釈迦様より親鸞聖人に到るまで、国を隔てること、インド、中国、日本と三ヶ国、時を隔てること約二千年、この永い間に七人の高僧が次々とお出ましになって、お釈迦様の説かれた阿弥陀如来の本願を、増さず減らさず、一つの器の水を次の器に移すように次々と正しく継承されました。

 親鸞聖人は法然上人の導きによってこの本願を素直に信受されて、私達を導いて下さるのであります。「三国の祖師各々この一宗を興す、愚禿すすむるところさらに私なし」即ちインド・中国・日本の三国に出られた七高僧が、偏(ひとえ)に弥陀の本願を広宣されました。親鸞はその外に別に変わった教えを説くものではありませんとお述べになりました。

 そうして聖人自身、遇い難く聞き難い本願に遇い、本願を聞くことの喜びを思うにつけても、お釈迦様以来二千年の長きにわたり、この法を継承された七高僧のご恩を深く深く感佩(かんぱい)して、「印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕わし、如来の本誓、機に応ずることを明かす」と讃嘆されました。

二 七高僧の選定

 お釈迦様より親鸞聖人に到る二千年の永きにわたり、幾多の名僧高僧が出られて、浄土の往生をすすめ、人々を導かれましたが、その中より特に、先に申しました七人の高僧を選び出し、七高僧として仰がれたのは次の3つの理由に依るのであります。

一、自ら西方浄土を願生された (自身願生(がんしょう))
二、後の世を導く不朽の書物を書かれた (著述)
三、伝統をふまえながら新しい教義の展開をされた (法門の発揮)

 第一に自身願生、これは大変重要な意味を持っています。宗教学者必ずしも宗教人に非ずという言葉がありますが、どんなに広く宗教の知識を持ち、その学問に精通していても、その人が必ず信仰の人とは言えません。宗教の学問によってその知識の欲求が満たされても、それはそのまま信仰にはつながりません。

 何故ならば信仰とは学問知識を超えて、無限の如来の大悲に目覚めた世界であるからです。いろいろな宗教の教えに精通しても、あなたの信仰は何かと問われた時に、私はこの教えによって生かされ、この教えによって安らかに死を迎えることが出来ると言い切れなかったならば、それは学問の世界にとどまって、宗教としては何等価値のないものと言わねばなりません。

 私、学生時代に、中沢顕明(けんみょう)師より史学について特別講座を受けたことがあります。その時、名前は言われませんでしたが、かって東本願寺の僧籍にあった方が、何かの理由で僧籍を離れられました。

 宗教学については、深い学識があられたのでしょう、当時の有力な某新興宗教より、素朴な原始宗教から脱皮する為の教義の書きかえを依頼されました。そうしてこれをなし遂げて現代日本の有力教団として発展させられました。けれどもその方は最後までその宗教の信者にはなられなかったそうです。こうした姿は、どんなに宗教的知識を持っておられても、真の宗教者として仰ぐには足りません。

 今親鸞聖人が自己の師と仰ぐ方を選ぶについての第一の理由に、自ら本願を信じ、念仏しながら、西方浄土を願生されたことを挙げられたのは当然のことと言わねばなりません。

 第二の理由としては、著述の有無であります。西方浄土を願生された方々は数多くおられますが、後世に輝く著述を残された方となりますと、選定の範囲は狭まってまいります。

 七高僧についてこれを見ますと、龍樹菩薩には「易行品(いぎょうぼん)」、天親菩薩には「浄土論」、曇鸞大師には「往生論註」、道綽禅師には「安楽集」、善導大師には「四帖の疏」、即ち「玄義分」「序分義」「定善義」「散善義」、源信和尚には「往生要集」、源空上人には「選択本願念仏集」があります。これ等は何れも往生浄土の道について、後世の人々を導いて輝かしい光彩をを放っています。

 三つには法門の発揮、自ら浄土を願生し、著述を残された方々の中から更に伝統をふまえながら、その時代時代に応じて新しい独自の教義を展開された高僧はと尋ねてみれば、この七人に限られます。

 この新しい教義の展開を七高僧の上に尋ねて見ますと、龍樹菩薩は釈尊一代の仏教を難行道、易行道に分けて易行道をすすめられました。

 天親菩薩は一心願生と申しまして礼拝、讃嘆、作願、観察、廻向の五つの徳を円(まどか)に具(そな)えた一心(信心)によって浄土に願生することを顕されました。

 曇鸞大師は自力他力を分別して自力を捨てて他力の行をすすめられました。

 道綽禅師は釈尊一代の教えを聖道門、浄土門に分かち、末法の衆生にはひたすら浄土門をすすめられました。

 善導大師は、古今楷定(ここんかいじょう)と申しまして、極悪の凡夫がお念仏によって最も優れた阿弥陀仏の浄土に往生するいわれを明らかにされました。

 源信和尚は、専修念仏の他力の行者は真実の浄土に生れ、雑行雑修の自力の行者は、方便化土に往生すると示されました。

 源空上人はお念仏によって浄土に往生できる理由は、阿弥陀仏の選択の本願によるからであるということを明らかにされました。このように西方浄土に往生する道について、その時代時代に応じてそれぞれ新しい教義を開いて導かれたのであります。この三つの条件に照らし合わせて、多くの高僧の中よりこの七人を選定されました。よってこの七人を七高僧として、その高恩を仰いで行かれたのであります。

三 凡夫に相応しい教え

 七人に共通した輝かしい功績は、二つに絞ることが出来ます。一つはお釈迦様のこの世にお出ましになった正意は、弥陀の本願を説くことにあると顕わされたこと。二つにはその弥陀の本願は末の世の凡夫に、最も相応しい教えであることを明らかにされたことであります。

 第一のお釈迦様のこの世にでられた正意については、第五章「み仏の世に生れ給う本意」のところで述べましたので、そこにゆずり、第二の末の世の凡夫に相応しい教えであることについて考えてみたいと思います。

 源空上人は「極悪最下の人のために、極善最上の法を説くところなり」とお述べになりました。極悪最下の機とは煩悩の中に明け暮れして、気に入らないと怒りの炎を燃やし、気に入れば貪欲愛着の心に振りまわされ、思うように行かないと愚痴をこぼしながら日暮しをしている私のことであります。これはまさに光を失い、闇の中にさまようている姿であります。これを親鸞聖人は、

 「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」と歎かれました。このような私を救う為には、もろもろの八万四千の自力の教えでは到底間に合いません。その為に、大悲の阿弥陀如来は勝れて易い南無阿弥陀仏の他力の法を案じ出し与えて下さったのであります。

 これは言葉をかえて言えば、凡夫が凡夫のまま本願を信じ、おまかせするばかりで救われて行くことであります。従って如来の本願こそ、末の世の私達に最も相応しい教えと言わねばなりません。

 私、昭和41年11月、北海道を1ヶ月間巡回した時に、鷹栖の専証寺(住職打本信英師)で坊守打本三津江さんから、亀井勝一郎氏の死を悼むという記事を特集したローカル紙を見せて頂きました。

 その年の 10月札幌で北海道出身者の文学展がひらかれました。亀井先生は函館出身ですから係の方が、東京の自邸を訪ね、出品を乞われました。先生は病床にあられましたが、快く承諾されて幼い子供の頃から今日まで、いろんな人の話を聞き、いろんな本を読んで、特に感銘した言葉を31枚の色紙に書いて送られました。

 一番最初の言葉が「よく遊びよく学べ」で31枚目の最後の色紙に「いそぎまいりたきこころのなきものをことにあわれみたもうなり」(「歎異抄」第九章)の言葉が書かれてあり「私は数年、病床にある。病床にあってねむれぬ夜、一人死を思う時に、この言葉がひしひしと胸に迫って来る」と註釈が添えてあったそうです。

 これを読んだ時に、深い感銘を覚え、弥陀の大悲による本願他力の救いこそ、私たちに最も相応しい教えであることをしみじみ感じました。親鸞聖人はこれを「如来の本誓、機に応ずることを明かす」と述べられたのであります。