はじめに

輝く讃歌

序:山本仏骨
はじめの言葉

 賞雅哲然君は、大阪府茨木市の北境、龍王山の麓に面する本願寺派の寺院に生まれた。 道心篤い両親の庇護のもとに育てられ、正念の頃から弘法の念に燃え、学問を好んで行信教校に入り、十数年間ひたすら習学の研鑽に努められた。

 縁あって鹿児島の明信寺に入り、寺門の経営と門信徒の教化には献身的に一貫して努力せられた。君は青年の頃から、いささか視神経が弱く、視界が困難であったにも拘わらず、よくそれを克服して、学問と布教に専心身を挺してひるまなかった気力には全く敬服の他はない。

 そして漸く老年に近づいた今、過ぎし日に積み重ねてきた経験と信念を活かして、それを著書として残し、有縁の人々、特に青少年に、浄土真宗のみ教えを伝えようと願っているのである。

 すなわち、さきには「輝くいのち」という書を出版し、これに続いて、今また「輝く讃歌」の出版を計っておられる。

 「輝く讃歌」とは親鸞聖人の残された”正信偈”のことであって、この偈には真宗の教えの要旨がまとめられており、門信徒は数百年来、これを尊び親しみ、明け暮れ仏前の勤行に諷誦してきたのである。賞雅君は自坊で多年法話を行っているが、それには多く正信偈を依用している。したがって正信偈は、君の血であり、肉であり、命であるともいえよう。賞雅君のみならず、真宗の門徒はすべてそうあるのが当然であろう。

 正信偈の解説書は、古来多く出版され、それこそ汗牛充棟もただならぬものがある。しかし君は単なる学問の書としてではなく、また広義のための本でなく、門徒がみな唱和しながら味わえるような書が欲しい−と書いているように、それが最も大切なことであり、祖意にかなうものであろう。わたしも多年それを望んでいたが、君が今それにふさわしいものを書いてくれたことは、よろこびに堪えないところである。

 この書は誰でも解るように平易を第一とし、しかも全篇を短くまとめてある。何事も繁雑な現代において、あまり長いものは一般の人にはひもときにくいが、この程度なら何返もくりかえして読むことができよう。君がそうした点に狙いをつけたことが、この書の特色といえよう。

 しかしながら君の視神経は年と共にますます不自由となり、近頃は殆ど失明に近いまでになっている。そうした中から一方で寺の業務を行いながら、なお学問と伝道を捨てず、しかもこうした書を完成した努力は驚くべきものがある。

 君にこうした生家を挙げしめたものとして、節子夫人の支持力を見逃してはならない。この書を出版するに当たって、わたしに一読して欲しいと渡されたものは、節子夫人の筆録によるものであった。すなわち君が口述したのを夫人がペンを持って追いかけ、それをテープにうつして更にそれを聞きながら文章をチェックして原稿用紙に清書されたのである。

 そうした作業もなかなか容易なことではなく、普通にできることではない。

 坊守仕事が相当繁雑な中に、夫君にこれを聖光せしめた節子夫人の労苦を改めてたたえずにはおられない。今こうして出来上がった文章を読みながら、一字一字に夫人の努力が浮かび上がっていることが偲ばれる。かくて夫婦合作とも言うべき伝道の書が、世に出たことを喜ばずにはいられない。これこそ浄土真宗を弘められた祖意にかなうみ法の精華として推奨すべきものである。

 夜の窓辺を打つさみだれの音を聞きつゝ
    昭和56年6月下旬
                             山本仏骨

はじめの言葉

 お正信偈、詳しく言えば正信念仏偈と申します。それは親鸞聖人が30有余年の歳月をかけて、心血注いで書かれました『教行信証』の行の巻の最後に書かれている60行120句よりなる讃歌であります。

 この讃歌は親鸞聖人自身の信仰を述べられると共に、みほとけ(阿弥陀如来)の救いと、二千年の長い間に、インド、中国、日本の三カ国にわたってこのみ教えを正しく継承された七人の抗争の輝かしい功績をたたえられたものであります。

 この『教行信証』の草稿の出来上がった聖人52才、元仁元年(1223年)を以て浄土真宗のひらかれた時と定められました。従ってこの『教行信証』は立教開宗の書と言われ、浄土真宗の根本聖典として、ご本典とあがめられています。

 永い永い年月を費やして一語一語の言葉に吟味を加え、安堵も訂正されて完成されたのであります。従ってこのお正信偈も幾度か筆を加えて書かれていますので、汲めども尽きぬ深い意味をたたえています。

 私の恩師山本仏骨先生がこんなことを言われました。「お釈迦様の一代の八万四千の教えは大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土の三部経に収まり、この三部経は更に教・行・信・証・真仏土・化身土の六巻に収まる。更にこの六巻は、60行120句のお正信偈に収まる」と、すればお正信偈のおこころをいただくことは仏教全体の心をいただくことになります。

 このお正信偈を、私たち心宗聞とが朝夕親様のおうやまいに、またいろいろな聞法の座に、おつとめとして用いるようになったのは今から約五百年前、本願寺中興上人とあがめられる蓮如上人の時であります。即ち蓮如上人が59歳の文明5年(1473年)に正信念仏偈と和讃を合わせて刊行して、お弟子の慶聞坊竜玄を大原につかわされて、ここで天台宗の声明(お経の節)を習わせ、正信偈和讃の節を作って、僧侶も門徒も共にお正信偈でお勤めするようにされました。

 思うに。蓮如上人の当時は「本願寺派寒々として参詣の人なし」と記されているように、たいへん衰微していましたが、よく上人一代の間に再興して、今日の本願寺教団の基礎を築かれました。その要因について、いろいろ数えられますが、その一つは正信偈の不朽にあると言っても過言ではありません。

 ともかく蓮如上人以来今日まで、500年の永い間にわたって、全国津々浦々、浄土真宗の門徒の在る処、お念仏の声のする処に、朝な夕な、お正信偈が唱和され、また聞法の座には必ずお正信偈がつとめられてまいりました。因みにご本山では、逮夜(午後のおつとめ)に正信偈ハヤという節でおつとめされますが、これはわずか数分であげ終わります。

 この勤行形式は今から約450年前、本願寺第十一代顕如上人の時に、織田信長を相手に十一年間闘った石山合戦の時につくられたもので、激しい戦争のさなかにも、お正信偈が唱和されていたことを見落としてはなりません。

 当時の苦労を今に伝えるために、この節が残されているのであります。

 私の子どもの頃、母に連れられて御門徒の家によく風呂をもらいに行きました。或る日門徒総代の宇山定吉さんの玄関の障子を開けて中に入ると、主人夫婦を中心に、家族みんなでお正信偈を唱和されていました。私のまぶたには今もその時の美しい情景が懐かしく浮かんでまいります。このように、お正信偈は真宗門徒の家庭に定着し、これによって豊かな宗教心を培って来ました。

 私が小学校1年生の夏休みに、2つ上の兄(京都教区徳円寺住職加賀山哲良兄)と一緒に、父からお正信偈を習いました。生まれつき不調法で音痴に近い私には、このお正信偈の節がなかなか覚えられず、くやしくて涙をぽろぽろ流しながら、ようやく習い覚えました。そうして朝夕のおつとめに、また聞法の法座に門徒の人々と一緒に唱和しながら、子ども心に強く感じたことは、せっかくおつとめしながら、このままでは意味が少しも解らない。詳しいことは解らなくても、大体の意味を知ってお勤めしたらまたありがたいのではないかと・・・・・。

 それより速くも半世紀の星霜が夢と過ぎ去りました。私はここに、法話集「輝くいのち」に続いて、お正信偈の法話を世におくることに致しました。お正信偈の講義、また講話はたくさん出されていますが、学問的な解釈で、屋上屋を重ねることをなるべく避けて、門徒の皆様が朝夕お勤めしながら、その大体の意味が解り、お正信偈を通して、御法義を味わっていただくというところに目標を定めて、私の味わいを述べてみたいと思います。

 法話集「輝くいのち」の出版は光真ご門主の伝灯報告法要の年に当たりました。この「輝く讃歌」は私がお育てを受けた行信教校創立百周年並びに国際障害者年の記念すべき年に当たることは奇しき縁(えにし)とありがたく感ずる次第であります。

 この小著はなるべく専門の言葉を避けて読まれる方々にわかりやすくと心がけながら、やはり専門の言葉を無視することはできませんでした。従って難しいとお感じになられる方は宗教、仏教の入門書の意味で書きました「輝くいのち」を読まれた上で本書を読んでいただけば理解しやすいことと思います。

    1981年(昭和56年)6月

薩南の地 明信寺にて
                      空華末弟  賞雅哲然