第五章 み仏の世に生まれ給う本意

如来所以興出世 唯説弥陀本願海
五濁悪時群生海 応信如来如実言

如来、世に興出(こうしゅつ)し給う所以(ゆえ)は、
唯(ただ)弥陀の本願海を説かんとなり。
五濁悪時の群生海、
如来如実の言(みこと)を信ずべし

 釈迦如来をはじめ、すべての如来がこの世にお出ましになった理由は、唯阿弥陀仏の海のような広い本願のお慈悲を説くためでありました。末法の五つの濁りの悪世にあえぐ人々よ、今こそ釈迦如来をはじめ諸仏のまことのお言葉を信じなさい。

一 阿弥陀如来と釈迦如来

 先に阿弥陀如来の本願、それによって成就された光明名号の働きを讃嘆されましたので、今のこの二行四句は、阿弥陀如来の広大なお徳を迷いの人々に伝える為に世に出られました釈迦如来の功績を讃えられたのであります。

 今から10年程前になりますが、私のお寺の歎異抄の会の時に、当時の世話役でこの会の会員であった八重倉盛蔵(やえぐらもりぞう)さんがこんな質問をされました。

「お釈迦様と阿弥陀様とどう違うのでしょうか。また浄土真宗も仏教でしょう。それなのに、何故真宗のお寺では阿弥陀様だけを祭ってお釈迦様を祭らないのでしょうか?」(真宗では祭るとは言わず安置すると言います)。

 この質問は素朴な質問ですが、真宗の基本的な問題だと思います。よく真宗の教えは相当聴聞された人でも、解ったようで解らないと言われます。仏教または真宗はすっきりした理論の上に立っていますので、そう難しい、またややこしい教えではないのですが、それが難かしいと思われるのはこうした基本的な問題を、説く方ではすでに解ったこととしてその解明をせずに先の方を説かれているからそんな感じを与えるのではないでしょうか。

 今この基本的な問題に対し、明確な答えを出されているのが「如来世に興出し給う所以は唯弥陀の本願海を説かんが為なり」の二句のお言葉であります。阿弥陀如来と釈迦如来の関係は、真宗の学問の上ではいろんな面から説かれていますが、解り易く一言で申しますと阿弥陀如来は救主、即ち救いの主であり、釈迦如来は教主・教えの主であります。

 具体的に申しますと、阿弥陀如来の本願のおいわれを、私達に伝えるためにみ仏の国からこの世にお出ましになった方がお釈迦様であります。

 次に真宗も仏教でありながら、仏教の開祖であるお釈迦様を何故安置しないのか、という疑問は今申しました事をよく理解されると自ずと解消されますが、私達の信仰の対象、つまり私を救うて下さるみ仏は阿弥陀如来一仏であります。従って信仰の対象として安置するのは阿弥陀如来で、他の仏菩薩を並べて安置しないところに、浄土真宗の特微があります。

 自力の教えでは自分の力だけでは仏のさとりを開く事はなかなか困難であります。よって諸仏菩薩の力を借りる為に諸仏菩薩を安置して、その加被力(かびりき)を要請するのです。

 浄土真宗は阿弥陀如来の本願のひとり働きで救って頂くのですから、阿弥陀如来一仏を安置して、他の諸仏や菩薩を安置しません。けれどもこれはお釈迦様を軽視することではなくて、阿弥陀如来一仏を信じてお敬いするままが、かえってお釈迦如来の本意に適い、お釈迦様を敬うことになるのであります。

二 お釈迦様の本意はいずこ

 親鸞聖人はお釈迦様がこの世にお出ましになった本意は、阿弥陀仏の本願一つをお説きになる為であったと仰せになりましたが、実はお釈迦様の教えは八万四千と言われるように、いろいろ沢山の教え即ち小乗の教え、大乗の教え、自力の教え、他力の教えといろんな面にわたって説かれています。

 これはお釈迦様の対機説法と申しまして、お釈迦様は法を説こうとする相手の性格、能力をよ良く見極めて、その人に応じていろいろ教えを説かれたのであります。けれども目的は、迷いを転じて悟りを開く、即ち仏になるところにあることは言うまでもありません。その教えは八万四千、お経の数にして一万二千巻の一切経と言われています。

 そうした中にあって阿弥陀如来の本願のいわれを上下二巻にわたってつぶさに説かれた無量寿経(大経)こをお釈迦様の本意であったと親鸞聖人は鋭く見抜かれました。

 私はこのことについて、少年の頃、先輩(滋賀教区稲岡義山氏)の法話で聞いた歌を思い出します。

  祭りには 皆とは言えど 気は娘

 この歌には、娘を嫁がせた親の気持ちがよく表れております。村祭りが近づいたので、どうか皆様是非お揃いでおいで下さいと案内状は書きますが、親の気持は誰よりも我が娘に帰って来てほしい、娘さえ帰って来れば‥‥‥という気持でしょう。

 お釈迦様は今申しましたように、沢山な教えを説かれましたが、その本意は阿弥陀如来の本願一つを説く為でありました。そのことはお釈迦様自身の言葉から、また道理の上からはっきり知ることが出来ます。

 王舎城外の耆闍掘山(ぎしゃくっせん)の空は清く晴れ渡り、明るい陽光は燦々(さんさん)と降り注いでおりました。

 ここには今やお釈迦様の説法を前にして、既に修行成り、神通力を身につけられた聖者(しょうじゃ)方、その他数知れぬ勝れたお弟子達が集まっていますが、誰一人寂(せき)として声はなく、その会座(えざ)は静寂と緊張に満ち満ちていました。

 ふと顔を上げて仰ぎ見ました時に、十大弟子の中で多聞第一と謳われました阿難尊者が、ふと顔を上げて仰ぎ見ました時に、お釈迦様のお姿は常と事(こと)変わって巍巍(ぎぎ)として光り輝き、にこやかなお顔は喜びと満足に満ち溢れていました。阿難尊者は静かに面を上げて、そのお姿を仰ぎ見ながら、

「世尊よ(お釈迦様)私は今までこのような気高く尊いお姿は未だ一度も見たことがございません。今日の世尊は五つの瑞相(ずいそう)に輝いて、かねてお聞きした西方浄土の阿弥陀如来のお姿を拝するようであります。」

と申し上げた時にお釈迦様は

「善き哉善き哉、阿難よ慧眼(えげん)(智慧の眼)を以てよく問うた。」

と阿難の問いを讃えられて、

「私は世に現れて、もろもろの教えを広く説いて来たが、それは阿弥陀仏の本願を広く知らしめて真実の利益を恵む為であった。今こそその時が来たからである。」

と仰せになって説かれたのが無量寿経であります。この光景を親鸞聖人は和讃に

  尊者阿難座より立ち
  世尊の威光を瞻仰(せんごう)し
  生希有心(しょうけうしん)とおどろかし
  未曾見(みぞうけん)とぞあやしみし

  如来の光瑞希有にして
  阿難はなはだこころよく
  如是之義(にょぜしぎ)ととへりしに
  出世の本意あらはせり p565

とうたわれています。

 これによってお釈迦様の本意は、弥陀の本願を説くことにあることが明らかに知られます。次に道理の上からこれをうかがいますと、「諸仏の大悲は苦者に於てす」(観経疏)という言葉があります。

 即ちみ仏の大悲は常に最低の者に働きかけるのであります。さすれば先に申しましたように、お釈迦様は相手の能力を見極めて法を説かれました。善根功徳を積める者には廃悪(はいあく)修善(しゅぜん)の法を、心を一境に集中して浄土並びに仏を観想出来る者には観察(かんざつ)の法をと、このように自力修行に耐え得る者には自力の法を。これらの自力の道を修めることの出来ない煩悩を一杯持った凡夫の為には、弥陀の他力のみ教えを、説かれたのであります。

 されば仏の大悲は誰の為に働くか、自力修行に耐え得ない凡夫の為にこそ、ひとえに働き給うのであります。さすればお釈迦様のこの世にお出ましになった本意は、最低の凡夫が救われて行く弥陀の本願を説くにあることが容易にうなずけるでしょう。このことを今「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と述べられたのであります。

三 濁りの世を救う真のことば

 一休和尚(おしょう)の歌に

  生れっ子が
  次第次第に知恵づいて
  聖に遠くなるぞはかなき

 私が学生の頃読んだ本の中にこんな歌が書かれていました。今も脳裡に残っていて時々思い浮かびます。幼児の間は天真らん漫でその無邪気さは仏に近いような感じを受けますが、だんだん知恵がつくにつれて、それから遠ざかって行くことは否定出来ません。つまり悪知恵と言うのでしょうか。そのことを傷んで詠まれたのがこの歌であります。

 すれば世の中が拓(ひら)け、人知が進むということは必ずしも人間の向上や幸せにはつながっていないようです。

 故湯川秀樹博士は、科学の発達は人間の生活を便利にしても、必ずしも幸福にしないと言っておられます。この言葉に私達はよく耳を傾けなければなりません。

 このことを思う時、今年6月頃だったでしょうか、私のお寺のYBAを卒業して他県に就職していた小久保(こくぼ)文夫君が、十数年振りに帰って来て私を訪ねてくれました。今千葉市の消防署に勤め、救急車に乗っているそうです。

 小久保君の話によると実に腹立たしいことが多いそうです。それは夜中に呼び出されて出動してみると、救急車を呼ぶ必要のないような軽い患者や、また家で手当をすれば充分である小さな傷でも呼ばれる、救急病院に運び込むと医者や看護婦から、何故これ位な患者を連れて来たかと小言を言われます。

 また昼間でもタクシーを呼べば金がかかるが救急車だと無料なうえに病院に行ってもすぐ診察して貰える、こうした状態で救急車を悪用する人が年と共に増えています。然もそういう人は地元の人でなく東京都から移住して来た通称高学歴と言われる層の人々に多いのです、と。

 私はこの話を聞きながら、知識が進歩することがそのまま真の人間向上にはつながらないことを感じ、一休和尚の今の歌を思い浮かべました。そうして人間はやはり有難い勿体ない、お陰様という宗教的教養を身につけないと本当ではないねと話し合うことでした。

 これに因(ちな)んで、NHKのラジオを聞いていると(昭和55年12月7日)、校内暴力についての座談会の席で女性評論家が、電車の中で見られたこんな光景を話しておれれました。ある高学歴と思われる婦人の連れていた幼い子供が電車に揺れて、思わず傍の人の足を踏みました。その時に婦人が、ごめんなさいと子供に代わってあやまられるかと思ったらそうではなくて、子供に向かって「電車が揺れて踏んだんだから、あなたが悪いのではないのよ、電車が悪いんだから謝る必要ないのよ」と言われたそうです。

 私はこの話を聞いて唖然とし、現代の良心よ何処へ行く? という感を深くしました。

 お釈迦様は、末の世になればなる程時代や思想が濁り(劫濁(こうじょく)、見濁(けんじょく))、煩悩が盛ん(煩悩濁(ぼんのうじょく))で、人々がいよいよ悪くなり(衆生濁(しゅじょうじょく))生活が濁って来る(命濁(みょうじょく))と説かれて五濁悪世と仰せになった言葉がしみじみ胸に響きます。

 親鸞聖人も激しい時代の転換期に立って、煩悩渦巻くこの世界をひしひしと感じながら、そこに蠢(うごめ)く人々を五濁悪世の群生海と仰せになって、このような暗黒の世を照らす救いの光、それがお釈迦様によって説かれた弥陀の本願であると仰がれました。

 ここに「五濁悪時の群生海、如来如実のみことを信ずべし」と無上命令の言葉をもって力強く勧められたのであります。