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第十五章 源信章

源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

源信広く一代の教をきて、
ひとへに安養に帰して一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、
報化二土まさしく弁立せり。

極重の悪人はただ仏を称すべし。
われまたかの摂取の中にあれども、
煩悩、眼(まなこ)を障(さ)へて見たてまつらずといへども、
大悲、倦(ものう)うきことなくすてつねにわれを照したまふといえり。

 源信和尚はお釈迦様の一代に説かれた教えに精通して、自らも偏(ひとえ)に弥陀の浄土を願生して一切の人々に勧められました。

 専ら念仏を称える信心と、雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)の信心の深い浅いを判定されて、お念仏の人々は真実のお浄土へ、雑行雑修の人々は方便の化土に生れると定められました。

 また煩悩を一杯持った罪深い人々もただ一筋に称名念仏を称えなさい。おろかな私のようなものも、お念仏によって摂取の光の中に抱かれている。今は煩悩に眼障えられて、み仏の摂取の光明を見ることはできないが、み仏の大悲は常に倦むことなく私を照したもうとお諭しになりました。

一 源信和尚の芳跡

源信広開一代教 偏帰安養勧一切

 源信和尚は今から約一千年前、平安朝の中期に出られて、日本浄土教の始祖と仰がれました。七高僧の第六番目の方であります。源信和尚は朱雀天皇の天慶5年西暦942年大和の当麻村(奈良県北葛城(かつらぎ)郡当麻村:現、葛城市)に誕生されました。

 幼き時より神童の誉(ほまれ)高く、7才の時父を失い、13才の時に比叡山中興上人と仰がれた慈恵大師即ち良源(りょうげん)上人について出家されました。

 15才の時、早くもその英才が認められて、村上天皇の前で称讃浄土教(または法華八講)の御前講義をされました。左右両側には大政大臣、左大臣、右大臣等の高位顕官の殿上人や南都北嶺の由々しき学匠達の居並ぶ中で約4時間にわたり怖(お)めず臆(おく)せず、あらゆる教典をふまえて講義されました。

 講義が終っても寂(せき)として声もなく、今日の結果は如何であろうかと、後で固唾(かたず)をのんで聞いておられた師匠良源上人も、その見事さに思わずはらはらと落涙されたと伝えられています。天皇も御感のあまり、おほめの言葉と絹一疋(ぴき)を賜りました。

 源信和尚は一時も早くこの喜びを故郷の母に知らせようと、使いの者に手紙をしたため、恩賜の絹を持たせて、大和の国に走らせました。けれども母は様子を聞いて、その絹に触れようともせず、手紙を持たせてそのまま比叡に帰らせました。

「あなたをお山に登らせたのは、偉い坊さんともてはやされるためではありません。ひたすら真実の道を求めて、人々を真の幸せに導く本当の僧となり、その真実の道を私に教えて欲しいと願ったからにほかありません。それなのにあなたは男女雑居する宮中に出入りして、名聞僧となり果てたことはなんと悲しいことでしょうか。」

と、切々と訴え、「後の世を渡す橋とぞ思いしに、世渡る僧になるぞかなしき」と書かれてありました。源信和尚は母の手紙によって、一時なりとも名利に心が動いたことを深く恥じられて、名利という字を部屋にはりつけてひたすら自己を戒めながら、勉学に努められました。

 良源上人によって復興されたと思われた比叡も、再び名利を争う巷と化し、僧とは名ばかりで、名利に狂奔している東塔西塔を逃れて、横川(よかわ)谷にこもり、ひたすら真実の道を求めて勉学修行されました。その頃から、源信和尚の眼は、聖道門自力の教えから浄土に生まれてさとりを開く浄土教に向けられたのであります。

 41才の時にお母さんに送られた「勧進往生偈」を見ても、よくそのことが窺われます。42才の時に、どんな浅ましい悪人凡夫でも、お念仏によって必ず浄土に生れ行く確信をお持ちになり、このことを一時も早く母に知らせようと、初めて山を下り、故郷に向かわれました。

お母さんは既に病床にありましたが、源信和尚より、往生浄土の道は、お念仏にあることを知らされて、

「思えば13の時にあなたを膝元から離し、29年間そのさみしさに耐え忍んで来たのは、このことひとつを聞かせて頂くためでありました。」

と、はらはら落涙して源信和尚の手を握りつつ、お念仏の中に安らかに往生を遂げられました。源信和尚は母の一周忌を迎えられた、43才の時に、亡き母を偲んでお書きになったのが有名な『往生要集』であります。

 当時、中国は先に申しました、三武一宗(さんぶいっそう)の法難が続いて、貴重な経典や書物が焼失されていましたので、仏教復興を願う皇帝の使者として周文徳が日本に仏教を学ぶために、来ておりました。この周文徳によって「往生要集」は書写されて中国に持ち帰られ、時の天子に献上されました。一説によると、これをご覧になった天子は、

「この素晴らしい書物を書く人は、ただ人ではない、まさに生きた仏である。インドにお釈迦様が出られて、み教えを説きたもう如く、今、東方日本に源信如来というみ仏がお出ましになって妙法を説いて、迷える人々を救いたもうか。」

と朝夕日本に向かって、源信如来と礼拝されたと伝えられています。

 思えば仏教が日本に伝わって以来、幾多の名僧高僧が出られましたが、遙か異国の天子から礼拝を受けられたのは源信和尚ただ一人であります。このことを思うにつけて『往生要集』が如何に素晴らしいかということがよく窺われます。

 源信和尚は後一条天皇の寛仁元年6月、75才で往生されました。その著述は恵心僧都(えしんそうず)(源信)全集に収められているだけでも八十一部百二十巻あります。これによって源信和尚が仏教について、いかに広く深い知識をもっておられたかが、よく解ります。

 けれどもその中心は先に申しました『往生要集』上中下三巻で、この書には地獄、餓鬼、畜生等の迷いの世界を離れ、真実の浄土に生れることを、力を尽くし、言葉を尽くして説かれてあります。

 特に地獄の描写はすさまじく、真実に迫り、読む人をして地獄の罪人の悲愁の声が切々と胸に迫るのを感じさせます。その往生浄土の道は、幾多あろうとも、私のような愚かな者は、ただ念仏による他はないと述べられ、自らも浄土を願生しながら、多くの人にこれをお勧めになりました。この源信和尚の功績によって、日本に於いて浄土教が確立されたのであります。

 よって先に申しましたように、源信和尚を日本の浄土教の祖と仰いでいるのであります。そのことを今「源信広く一代の教を開きて、ひとへ安養に帰して一切に勧む」と讃えられたのであります。

二 源信和尚の勲功

専雑執心判浅深 報化二土正弁立

 さきの第十三章道綽章で詳しく述べましたが、道綽禅師はお釈迦様の説かれた教えを、聖道門、浄土門と分類整理されました。これは龍樹菩薩の難行道、易行道の教え、曇鸞大師の自力、他力をふまえて説かれたもので、即ち難行道自力の教えを聖道門と定め、これはこの世でさとりを開き、仏になる教えであるとされました。それに対して、易行道他力の教えを浄土門と定められ、これは阿弥陀仏の浄土に往生して仏になる教えであると定められました。

 道綽禅師は聖道門をのがれて、偏に浄土門に入ることを勧められましたが、今、源信和尚は、その浄土に往生する道について、専修正行(せんじゅしょうぎょう)(念仏)の他力の道と雑行雑修の自力の道のあることを説いて、その優劣を明らかにして、専修念仏の道を勧められたのであります。ここに源信和尚の素晴らしい勲功があります。

 専修正行と難行については、色々難しい道理が説かれていますが、いまその心をふまえて解りやすく申しますと、専修正行とは専ら阿弥陀如来の功徳を説いたお経、即ち浄土の三部経をよみ(読誦)、阿弥陀如来を心に思い浮べ(観察)、阿弥陀如来を礼拝し、阿弥陀如来のみ名を称え(称名)阿弥陀如来を讃嘆供養することであります。

 この五つの正行の中、第四の称名が中心で他の四つはこれに収まりますので、つまり専修正行とはお念仏を称えることであります。

 雑行雑修とは聖道門の諸々の自力の行をもって阿弥陀仏の浄土を願生することです。この行は一行に限らず、いろいろの行を修めていますので雑行雑修といいます。

 また、たとえお念仏ひとつを称えていても、自力の心が雑(まじ)るならば、やはり雑行雑修といわねばなりません。さらにもう少し詳しく申しますと、先の五つの正行に対して、阿弥陀如来以外のお経を読み、仏を心に思い浮べ、礼拝し、仏名を称し、讃嘆供養することを五つの雑行といわれます。したがってどんなお経を読み、どんな仏を礼拝してもよいのではありません。この点私達はよくよく注意しなければなりません。

 さて他力の念仏の信心と、雑業雑修の信心との相違を明らかにされて、他力の念仏の信心は阿弥陀如来より恵まれた信心であるから深く、雑行雑修の信心は凡夫の自力の計いより起す信心であるから浅いとお諭しになって、他力の信心の人々は真実の浄土に生れ、雑行雑修の自力信心の人々は方便化土に生れると判定されて、信心の因と果報について優劣を明らかにされたのであります。

 このことを「専雑執心判浅深、報化二土正弁立」とお説きになりました。因みに執心とは信心の異名であります。

 専修念仏の他力の教えと雑行雑修の自力の教えについての相違点を更に詳しく申しますと、雑行雑修の自力の教えでは、自分の力をあて頼りとし、その上に仏の力を求めて自分の力、プラス仏力によって救われていこうとするのであります。

 これは仏教の自力の教えばかりではなく、あらゆる宗教にも言われます。自分が信心しお祈りすることによって、神の恵み、或いは力を頂いて救われようとするのです。

 これに対して、他力の救いは、私は救われるような価値や力は全然持たない、言い換えれば私は0(ゼロ)であると自覚し、全く仏の願力の一人働(ひとりばたら)きによって救われて行くのであります。

 従って他の宗教には必ず祈願・祈祷・祈りがありますが浄土真宗では祈りが全く否定されて、祈りなき宗教と言われるのはこのためであります。

 ここに浄土真宗の他力の教えと、他の教えとの根本的な相違があることを知らねばなりません。これをもし図示すれば次のようになるでしょう。

浄土真宗以外の宗教
私の力 + 神仏の力 = 救いの完成

浄土真宗
私の力(0) + 仏の力(10) = 救いの完成(10)

 親鸞聖人のゼロの自覚に立つ告白の言葉に耳を傾けますと、

  一切の群生海、無始よりこのかた乃至(ないし)今日今時に至るまで、穢悪汚善(えあくわぜん)にして清浄の心なし、虚仮諂偽(てんぎ)にして真実の心なし  

  悲しきかな愚禿鸞、愛欲の曠海(こうかい)に沈没(ちんもつ)し、名利の太山(たいせん)に迷惑(めいわく)して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを快(たのしま)ざることを、恥づべし傷むべしと

  いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定住み家ぞかし

  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし

  悪性さらにやめがたし
  心は蛇蠍のごとくなり
  修善も雑毒なる故に
  虚仮の行とぞなづけたる

 以上の言葉は倫理道徳の反省より起こるところの浅いものではなくて、み仏の光に照されて、徹底的に知らされた深い内観よりほとばしり出た言葉であります。

 けれども深い内観は大悲によって知らされた境地でありますので、自己を悲しんでいたむ心のままに大悲を仰ぎ大悲に支えられた喜びのあることを見忘れてはなりません。

三 念仏の利益

極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

 第二節で雑行雑修と専修念仏の優劣を示して専修念仏を勧められました。よってこのお言葉はその利益を説かれたのであります。極重悪人とは今までしばしば述べてまいりましたが、自己中心の我執煩悩の中に明け暮れして、悪より悪に入り、暗きより暗きにさまようている私の姿の他ありません。

 そうした私も、本願を信じ念仏するところに摂取の光明の中に照護されるのであります。煩悩によって眼(まなこ)障(さ)えられて、仏の姿を見ることは出来なくても、常に私を倦(う)むことなく護り照らしたもう事をうたわれたのであります。

 この言葉は往生要集に書かれたもので、源信和尚の生き方の方向を決定し、生き方を支えられた持言(じごん)であります。それは源信和尚が寛仁元年西暦1017年75才の六月に亡くなられましたが、その年の5月に書かれました『観心略要集』の中にも書かれていますので、そのことがよく知られます。

 親鸞聖人もこのお言葉に深く感動されて、このお正信偈と教行信証の信の巻に引用されました。また御和讃にこの言葉の意をうたって

  煩悩にまなこさえられて
  摂取の光明見ざれども
  大悲ものうきことなくて
  常にわが身をてらすなり  

 と仰せになりました。この言葉には何等の注釈は要りません。宗教生活の喜びを素直にお述べになったものであります。凡夫の肉眼では、み仏を見ることはできませんが、み仏は常に私を照し護りたもうものであります。

 よく「私を救うみ仏があるならば見せてみよ、それなら文句なしに仏を信ずるよ」と、言われる人があります。いやこれは人の問題ではなくて、私自身学生時分に、そんなことを思ったことがあります。

 私はこれについて、恩師利井興隆先生と関田正雄さんのお話を思い浮かべるのです。関田さんは、両親は天理教と真言宗で、真宗に全然関係のない家庭に育った方ですが、友達のすすめで利井興隆先生のお話を何度か聞いているうちに、一つの不審を持たれました。その時の会話です。

「先生、地獄、極楽、仏様がほんとうにあるのですか。」
「おおあるわい。」
「そんなら見せて下さい。」
「馬鹿もの、目を洗って出直して来い。」

 この先生の言葉に家へ帰って考えに考え抜かれました。そうしてやっとこの言葉の謎が解けました。関田さんは先生を訪ねられて

「先生、よく解りました。」
「そうか、それでよいのじゃ。」

 私は学生時分に聴いたこの話が、今も時々頭に浮かびます。ちょっと聞くと禅問答のようで、ちんぷんかんぷんで解りませんが、よく味わって見ると、汲めども尽きぬ深い味わいがあります。

 地獄、極楽が見え、仏の姿が見えたなら、信ずるというけれど、果して仏や浄土を見る眼を私が持っているかどうかという問題であります。赤い眼鏡をかけて見れば世界はすべて赤く見えます。青い眼鏡をかけて見ればすべてが青く見えます。私達のまなこは、我執煩悩によって曇っている迷いの眼でしかありません。

 迷いの眼を以て見る世界は、すべてが迷いなのであります。もし迷いの眼に見える神、仏であるならば、それは迷いの神、仏でしかありません。地方に行くとよく阿弥陀如来を見せると説くいかがわしい宗教がありますが、そんな宗教は全く迷信という他ありません。

 関田さんが、あるなら見せて下さいと言われた時に、先生が言葉鋭く、「馬鹿者、目を洗って出直して来い」と言われたのは、お前は仏を見る立派な眼をもっているのか、思い上がるなと厳しく叱られたのであります。

 私達は仏を見ることは出来なくても聞法を通し、大悲を感ずる素晴らしい心の働きを持っています。故に万物の霊長と言われるのであります。

 然しみ仏の大悲を感ずることはなかなか容易なことではありません。曇鸞大師は「非常の言(ことば)は常人の耳に入らず」(七祖)と仰せになりました。その非常の言葉が私の心に頷けるのは、永い間にわたってのみ仏のお育ての他ありません。そのことを親鸞聖人は「たまたま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と仰せになり、お軽同行が、「おかるおかると呼びさまされて、ハイの返事も向うから」とうたわれたのはこの心からであります。

 み仏の大悲に育てられ、大悲に目覚めるたった一つの道が、聞法であります。私の眼には見られないけれども、私を暖かく見護りたもう大悲に目覚める時、そこに苦悩の人生を心豊かに生き抜く道が開かれることでしょう。

 私は昭和54年9月、指宿組乗船寺藤岡義昭先生のお寺に彼岸の布教に参りました。藤岡先生は私の尊敬する先輩で、鹿児島に入寺以来、いろいろ指導頂いて来ました。先生は数年前、築地本願寺の輪番をしておられましたので、こんなことを尋ねました。

「築地本願寺では、浄土真宗に関係のある国会議員の方々が、月に一度、揃って参詣されると聞きましたが、今もそれは続いているのでしょうか。」
「うん続いているよ。」
と詳しく話されました。
「国会が開かれている間、自民党、社会党、民社党、新自由クラブ、無所属の浄土真宗に関係のある衆参両院の議員の方々が、月に一回日曜日の七時に集り、お正信偈でおつとめされて、前門様のお話を二十分聞かれ、八時に会食されて散会されるのですが、そうした方々の中で、前衆議院議長の保利茂さんの聞法の姿勢、その後姿には、私達も頭が下がりました。」

と云われました。私はこれを聞いた時に、なるほどと一つの疑問が解けました。それは保利さんが内閣官房長官の頃、NHKの国会討論会に数回出られました。野党の人が歯に衣着せず、ずばりずばりと鋭く詰問されます。聞いていても、冷っとすることが度々ありましたが、保利さんは少しも腹を立てることなく、酸いも甘いも噛みわけたものわかりの良いおやじさんが、噛んで含めるようないい方で答弁しておられました。

 私は、なんと心の広い、温い人であろうかと聞いていましたが、ここにその謎が解けました。

 この保利さんが国会議員団の団長として中国訪問を前に、癌で倒れ、慈恵医大病院に入院されました。文芸春秋54年10月号に、この様子が詳しく書かれてありましたが、保利さんは、見舞いに来た人達に、お正信偈を開いて、私の最も心ひかれる言葉は「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」の言葉であると話しておられました。

 私はこれを読んだ時に保利さんの政治生活を支えたものは、お念仏の救いであり、人間はやはり宗教の支えを持つことが真実の生き方であるということをしみじみ感じました。

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