第十六章 源空章

本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入

本師源空は、仏教にあきらかにして、
善悪の凡夫人を憐(れん)愍(みん)せしむ。
真宗の教証、片州(へんしゅう)に興(おこ)す。
選択本願悪世に弘む。

生死輪転の家に還来(かえ)ることは、
決するに疑情(ぎじょう)をもって所止(しょし)とす。
すみやかに寂静無為(じゃくじょうむい)の楽(みやこ)に入ることは、
かならず信心をもって能入とすといへり。

 本宗の祖師源空上人は、お釈迦様が一代の間に説かれた仏教に明らかで、善悪の全ての凡夫をあわれんで真宗の教行証の教えを日本に興し給い、選択本願の救いを末法の悪世に弘めてくださいました。

 生死の迷いの世界を生まれては死に、死んでは生まれてさ迷うのは罪の軽い重いによるのではなくて、本願を疑うことによると教え給い、速かに煩悩を離れた寂静無為のさとりの世界に入ることは、必ず信心によるのであるとお説きになりました。

一 源空上人の足跡

本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人

 源空上人は法然房源空と称し、七高僧の第七番目の高僧と仰がれ給い、法然上人とも呼ばれています。今を去る850年前、長承2年(1133年)4月7日美作国(みまさかのくに)久米郡稲岡の庄(今の岡山県久米南町)に生まれました。

 お父さんは漆間時国(うるまときくに)と言い、押領使(おうりょうし)としてその地方を治めておられました。仏教の信仰厚く領民をやさしく慈しまれましたので、人々は慈父のように慕っていました。

 ところが明石の源内定明がそれをねたみ、夜襲をかけました。当時13才であった法然上人は、勢至丸と呼ばれていました。たまたま叔父のうちに行っていたのでありますがこの変事を聞いて、取るものも取りあえず駆けつけてみると、源内は既に引き上げて、お父さんは瀕死の重体でありました。勢至丸は父の手を握りながら、

「お父さん御安心下さい。私はどんな困苦に耐えても憎い敵を打ち果し、お父さんの恨みを晴らします。」

と言った時に、父、時国は苦しい息の中から喘ぎ喘ぎ、

「恨みに報いるに恨みをもってしては恨みの消ゆる時がない。お前はこの断ちがたい恨みを断ち切って、敵も味方も平等に救われる仏の道を求めてくれ。」

と、懇懇(こんこん)とさとされて息が絶えました。勢至丸は父の意志を継いで叔父の観覚(かんかく)の許にひきとられました。

 15才の時、観覚の勧めで比叡山にのぼり源光上人をたずねられました。この時叔父観覚の、源光上人に送られた手紙の中には「文珠一体を送る」と書かれてありました。普賢菩薩がお釈迦様の慈悲を表すのに対して、文珠菩薩はお釈迦様の智慧を表します。いかに、叔父観覚上人が勢至丸の英才を認めておられたかがよくうなずけます。このことを和讃に

  源空*三五のよはひにて
  無常のことわりさとりつつ
  厭離(えんり)の素懐(そかい)をあらはして
  菩提のみちにぞいらしめし
     *三五よはひ・・・15歳

とうたわれています。更に皇円阿闍梨(あじゃり)について出家し、18才で黒谷の叡空(えいくう)上人の弟子となって、法然房源空と名乗られました。これは師源光上人と叡空上人の名を一字ずつ頂かれたものであります。

 24才の時に黒谷を出て嵯峨の清涼寺をたずね、更に南都(奈良)に遊学されました。10数年後再び黒谷に帰り、報恩蔵に籠もって一万二千余巻の一切経を5回も読み返されたと伝えられます。

 しかし法然上人の胸には、救いの光はさしては来ませんでした。ひたすら悶々たる求道のうちに、善導大師の観無量寿経を解釈された四帖の疏の『散善義』の中の「一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、時節の久近を問わず念々にして捨てずば、是を正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に」の言葉が焼き付くように、上人の目に入ってきました。

 この言葉の意味は、もっぱらふた心なくお念仏して、その姿形にとらわれず、又時節の長い短いを問わずしてお念仏を相続するならば、これによって正しく浄土に生まれることができる。なぜならば、このお念仏は衆生を必ず救うという阿弥陀仏の本願によるからであるという意味であります。

 この言葉によって必ず救われるという確信が生まれました。ここに長い間上人の胸を閉ざしていた闇雲が晴れたのであります。時に承安5年の春、上人43才でありました。浄土宗ではこの年を以て、立教開宗と定められています。

 その後法然上人は吉水に居住して、善人悪人全ての人々が平等に救われていく本願他力の念仏を説かれました。当時、貴族政治から武家政治に、古代から中世への大きな時代の変動期と源平二氏の戦いの動乱の中に喘いでいた人々は、乾天に慈雨を得たように貴賎老若を問わず法然上人のもとに集まりました。

 上は後白河法皇、尼将軍とうたわれた源頼朝の奥方政子夫人、九条関白兼実公等、高位顕官の人々や、またかつては源平の戦いに互いに刃を交えた平家の御曹司、平重盛の孫勢観坊源智、一の谷の合戦で花の若武者16才の平敦盛の首を切った源氏の荒武者熊谷次郎直実、一般の町民百姓、遊女と卑しまれた白拍子(しらびょうし)等、あらゆる人々がこの世の恩讐を超えて手を取りながら念仏を称えてみ教えを仰いでゆかれました。その姿は誠に壮観で美しいものでありました。

 こうした法然上人の名声は日増しに高まると共にその反動は強く、54才の時、聖道門の学匠達と大原の三千院で法論を交えられました。これが有名な大原問答であります。

 その後各宗より法然上人の念仏教団に対する圧力はいよいよ強く元久元年、上人72才の時比叡山より念仏教団糾弾の延暦寺奏状が朝廷に出されました。この時法然上人以下お弟子189人の署名による七ヶ条の請文を、天台の座主真性上人の元に送られて一応事なきをえました。親鸞聖人は綽空の名を以てここに名を連ねておられます。

 翌年の元久2年(73才の時)奈良の興福寺より興福寺奏状が朝廷に送られました。延暦寺奏状は念仏者の行いについての糾弾でありますが、興福寺奏状は、他力念仏の教義についての糾弾であります。

 これが導火線となって上人75才承元元年、念仏禁止の命が下り、法然上人以下高弟の人々が死罪、或いは流罪に処せられたのであります。上人は土佐の国に流罪と決まりましたが九条兼実公の特別の計いで、その荘園がある讃岐に留まられました。

 その年12月に、流罪は許されましたが都に入ることはできず、摂津の国勝尾寺(大阪府箕面市)に四年余り居住されました。許されて建暦元年11月に都に入り、東山の吉水の庵室に帰られましたが、翌2年(1212)1月25日80才で往生の素懐を遂げられました。

 こうした法難によって一時は念仏の灯は消え去ったかのように思われましたが、その灯は消えること無くお弟子や信徒の間に継承されて行きました。これは偏に法然上人が智恵第一の法然房と言われるように、あらゆる仏教に精通してその心から苦悩の凡夫を慈しまれたことによるのであります。

 このことを「本師源空は仏教に明らかにして善悪の凡夫人を憐愍せしむ」と讃えられました。又親鸞聖人は源空上人のお徳を深く感佩して和讃に

  善導・源信すすむとも
  本師源空ひろめずは
  片州濁世(じょくせ)のともがらは
  いかでか真宗をさとらまし

  曠劫多生(こうごうたしょう)のあひだにも
  出離の強縁(ごうえん)しらざりき
  本師源空いまさずは
  このたびむなしくすぎざまし

と、その高恩を仰いでおられます。

二 源空上人の勲功

真宗教証興片州 選択本願弘悪世

この二句のお意は、親鸞聖人が和讃に、

  智慧光のちからより
  本師源空あらはれて
  浄土真宗をひらきつつ
  選択本願のべたまふ

と述べられていますように、法然上人が日本に真宗を開いて真実のみ教えを興(おこ)し給い、第十八願の選択本願の念仏を弘め給うことを讃嘆されたのであります。

 今まで聖道門の片隅にあってその存在意義を僅かに認められていたのが、浄土往生の念仏のみ教えでありました。即ち聖道門のきびしい修行に行き詰まった人々が、お念仏してまずお浄土に生まれようと願ったのであります。それは浄土はこの娑婆世界と違って誘惑や妨げが少なくて、仏道修行がし易いからと先ず浄土を願生したのであります。

 これに対して法然上人は、聖道門より念仏を独立させて浄土宗と名乗ってこのお念仏によって全てのものが救われていくことを明らかにされました。

 七高僧は何れも念仏による浄土の往生を勧められたのでありますが、何故お念仏で浄土に往生することが出来るかということについて、この高僧方の深い心を鋭く見抜いて、それはお念仏は阿弥陀如来様が衆生を救う為に選び抜かれた選択本願のお念仏であり、この念仏には最も勝れた徳と最も易い徳が具わっているからであると開顕されたのであります。ここに念仏往生について確固不動の基礎が明らかにされました。これが法然上人の素晴らしい功績と言われるものであります。

 法然上人は「極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり」と仰せになりました。つまり「諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす(善導大師)」とありますように最も苦悩するものが仏の救済の対象であります。従って最も愚かな罪の深い私達の為にみ仏は最も勝れたみ教えを以て私を救おうとされました。

 この救いの法こそ選択本願のお念仏であると、法然上人は明らかにされたのであります。それは上人69才の時に、九条関白兼実(かねざね)公の請いによって書かれた「選択本願念仏集」の中に、具さに説かれてあります。この書は選択本願の念仏の理(ことわり)を明らかにすると共に、浄土宗独立の宣言書とも言うべき書であり、今迄の聖道門の学匠達の考え方を全く逆転されました。

 即ち先に申しますように念仏して浄土に往生する道は、聖道門の自力修行に行き詰った人々の為にあり、聖道門の自力修行を完成する為の方便の道として存在価値が認められたのでありますが、法然上人は一切の人々が速やかに迷いの世界を離れようとするならば、二種の勝法の中、しばらく聖道門をさしおきて、選んで浄土門に入りなさい、と力強くお述べになって、聖道門ではもはや迷いの世界を離れることは出来ないと宣言されました。

 これは当時の仏教界の常識を根本的に破られたのであります。親鸞聖人はこのお意を承けて御和讃に、

  聖道権化の方便に
  衆生ひとしくとどまりて
  諸有に流転の身とぞなる
  悲願の一乗帰命せよ

とうたわれました。これは聖道門は往生浄土のお念仏に入るため、仮に設けられたものであり、衆生はいたずらにこの方便の教えに止まっているから迷いの世界に流転して行くのであるという意であります。法然上人はこの心を確信を以て選択集にお書きになり、本願他力の念仏を高らかにお勧めになりました。

 しかしこの書が世に公開されるならば、仏教界に大きな波乱を巻き起こすであろうと予知されて、兼実(かねざね)公に、「この書は決して公開して下さいますな。お読みになったら焼き捨てるか壁の中に塗り込んで下さい。」と申されました。また三百有余人のお弟子にもこの書を書き写すことを許されたのはわずか五、六人にすぎませんでした。

 果たして上人の亡き後この書が公開されるや栂尾(とがのお)の明恵(みょうえ)上人は直ちに摧邪輪(ざいじゃりん)を作って、法然並びに念仏の教えは仏教に非ず、外道であると、厳しく糾弾の矢を放たれました。

 また比叡山の僧徒は選択集の版木を山に持ち帰り、大衆の面前で焼き捨て法然上人の墓をあばいて、その遺体を辱めようとしました。幸いそのことが事前にわかって、上人の遺体はお弟子の手によって他に移され辱めを逃れたのでありますが、墓は乱暴に破壊されました。

 親鸞聖人が畢生(ひっせい)の力をこめて教行信証を書かれたのは、選択集に対する厳しい誤解を解く為でもありました。このような他宗派よりの厳しい弾圧の中にも、法然上人は毅然(きぜん)として浄土宗の独立を守り選択の本願の念仏を末の世の私達の為にひろめられたのであります。

三 疑と信心

還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入

 法然上人のお弟子の中で上人の没後、親鸞聖人を除いて外に五人の高弟によって教えが五つに分かれました。それを法然門下の五派分裂と言っています。その代表的なものが今日残っている浄土宗鎮西派(本山京都知恩院)を開いた聖光房弁長、浄土宗西山派(本山京都西山光明寺)を開いた善慧房(ぜんねぼう)証空等のお弟子達であります。

 親鸞聖人が信心一つで往生すると説かれた信心往生に対して、これ等の人々は背師自立(はいしじりゅう)(師の教えに背いて自分勝手な考えを主張する)と非難攻撃しました。

 法然上人は、往生の業は念仏を以て本となす、と説かれて、ひたすら念仏を勧められました。それに対して信心で往生を説かれた親鸞聖人は師の法然上人の教えに背いて自分勝手なことを言い出したと非難されたのです。その誤解を説こうとして法然上人の言葉を引いてお示しになったのがこの四句の言葉であります。

 このお言葉の意は、初めの大意の所で申しましたように、迷いの世界を生まれては死に、死んではまた生まれつつ永久にさ迷うて行くのは罪の深い浅いによるのではなくて、本願を疑うか疑わないかにかかっている。この迷いの世界を離れて煩悩の炎が消えて、清浄真実の寂静無為(じゃくじょうむい)の都に速やかに入ることは信心の一つにかかっている、とお諭しになって偏に他力の信心をお勧めになったのであります。

 この言葉は選択集の信疑決判に説かれた法然上人のお言葉で、従って信心正因は法然上人の教えに背いたものではないことをお示しになったのであります。

 そこで法然上人は念仏往生を高く掲げて人々を導かれました。それに対して親鸞聖人は、何故、信心往生を説かれたのでしょうか。思うに法然上人の説かれたお念仏は自力念仏でなくして他力の念仏であることを決して見落としてはなりません。

 何故称名念仏によってこんな浅ましい十悪の法然、愚痴の法然と言われたものが救われていくのか、それが長い間の法然上人の胸を苦しめた疑問でありました。その疑問が解けたのは、善導大師の「順彼仏願故(じゅんぴぶつがんこ)」のお言葉であります。この言葉によって上人の胸を閉ざしていた暗雲がカラリと晴れ渡っていったのであります。

 即ちこの称名念仏が、本願他力によって顕れた念仏であって、自分の力で称えて功徳を積んでいこうとする自力念仏でないということを明らかに知られたのであります。

 これによって法然上人がお念仏一つで救われると説かれたお念仏は、自力念仏でなくて他力の念仏であることが明らかであります。

 しかし、浄土宗鎮西派を開いた聖光房弁長、西山派の善慧房証空という人達は、聖道門自力の教えから、法然上人の学徳にひかれてお弟子になられたのですが、親鸞聖人とはその趣が違うのであります。

 親鸞聖人は何度となく申しますように、全く自力ではどうにもならない、自力の教えの限界を極めて一切の自力を捨てて全く己れを空しくして、ゼロの立場に還って素直に法然上人の教えを受け入れられました。

 これに対して他の弟子達は、自力聖道門の心を残しながら法然上人の徳にひかれて弟子になられたのですから、他力の教えをそのまま素直に受け入れることが出来ずして自分勝手な解釈をしたため、半自力半他力の教えになりました。これを蓮如上人は、「本宗の心捨てやらずして」と仰せになっています。

 これについてこんな話が伝えられています。聖光房弁長は北九州の方で学匠の誉高かったのでありますが、法然上人と問答を交わし

「もし私が負けたら弟子になりましょう。貴方が負けたら弟子になりなさい。」

と言い、論争に負けたが故に法然上人の弟子になられた方です。と、このように三百有余人のお弟子はありましたが、多くのお弟子は自力の執心にとらわれて、麗しく他力の教えを受け取ることが出来ず、却って法然上人の他力の教えをくらましました。

 法然上人の念仏往生は称えた功徳で救われていく教えではなくて、すでに救うと呼び給う本願を仰ぎ大悲に任せた姿であると、法然上人の心を明らかにされたのであります。

 従って法然上人の念仏往生は、信心を内に孕んだお念仏によって往生すると勧められたのであります。親鸞聖人はこのお念仏の真意を見誤った他の人々に対して、念仏に孕んでいる信心を表に立てて信心往生と説かれたのであります。

 たとえば提灯明るしと勧められたのが法然上人の念仏往生であり、提灯の中のローソク明るしと勧められたのが親鸞聖人の信心往生であります。このように頂いてみれば、法然上人の念仏往生の勧め振りと、親鸞聖人の信心往生の勧め振りは、言葉はしばらく左右はありますが心は全く一つであって、自力念仏による往生を勧めた聖光房弁長、善慧房証空の弟子達の方こそかえって背師自立であり、親鸞聖人は決して背師自立でないことがうなずけるでしょう。

 ここに親鸞聖人は恩師法然上人のお徳を高く高く讃えながら、本願を疑う心を離れて素直に大悲を仰ぐ信心によって、速やかに寂静無為の都に還りなさい、と法然上人がひたすらお勧めになったことを明らかにして源空章を閉じられたのであります。

     〇重ねて信心往生について

 次に信心往生とは言葉を換えて申しますと、信心正因ということであります。親鸞聖人の教えの最も大きな特徴は信心が正因で称名は報恩であるということです。称名報恩についてはしばらく置いて、信心正因について考えて見たいと思います。

 まず明らかに心得ておかねばならないのは、信心正因は信心一つで往生の因が定まるということでありますが、それは信心が往生の条件即ち救いの条件ではない、ということであります。

 これを取り違えると、知らず知らずのうちに自力の信心に陥って、如来の大悲を見失うことになり、生死の迷いの世界に流転していくことになります。

 昔から、親鸞聖人のみ教えを聞きながら信心を得ようとして得られず、多くの熱心な求道者が苦しんできたのは、信心正因というおいわれを信心が救いの条件であると取り違えたことによるのであります。

 ではこの二つはどう違うのでしょうか。もし、信心を往生の条件と考える時に、当然聞きぶり信じぶりが問題になり、信心の味わいの深い浅いが問題になってきます。

 こんな聞きぶり、こんな信じぶりで果たして良いのであろうか。あの人はあんなに深く喜んでおられるが、私はどうしてもあんなに喜べない。あの人と比べたらまだまだ信心が薄い、信仰が足りない。こんなことで良いのであろうか、といつまでたっても、これで救われるという確かな安心ができません。

 それは他力の無条件の救いを聞きながら、自分の信心を役立てようとする、そんな計いに陥っているからです。自分の信心を役立てようとする計い、親鸞聖人は定散自力の信心、本願疑惑の人々として強く戒められました。

 またその姿は、本願を仰ぐ眼をいつの間にか自分に向けていますので、本願を見失っている姿とも言えましょう。信心正因とは信心が救いの条件でなくて、こんな浅ましい私を必ず間違いなく救うと呼び給う大悲を仰ぐ姿であり、いつ思い浮かべてもこんな浅ましい奴をお救いの本願と仰いでゆくのであって、もはや自分の信じぶり聞きぶりに用事がなくなって、御本願一つを仰いでゆくのであります。

 これはとりもなおさず聞いて信じてまいるお浄土ではなくして、参らせて頂くお慈悲を聞いて安心させていただくのであります。

 まいらせていただくおいわれを聞いてみれば、いつ思い出しても、こんな浅ましい奴をお救いの御本願であると、両手離して、御本願一つを仰いでゆく姿であります。そこには、こんなに喜ばれたからこんなに有難い心になれたという、そんな所に腰をかけて安心しようとする計いは全くなくなり、ただほれぼれと御本願一つを仰ぐばかりであります。

 大丈夫の親様の御本願一つによって救われることよと安心させていただく、これを信心正因と申されたのであります。歎異抄に、

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんと思いたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」

 と仰せになったのはこの意であります。自分の心すなわち信じぶり聞きぶりに用事がなくなった姿、このことを思う時に私は、何回目かの本願寺総会所の布教の時に、よく参詣されるお同行から聞いたお話を思い浮かべるのであります。

 これは私が直接、K和上から聞いた話ではありませんのでもし間違いであるならば、お許しいただきたいと思います。

 K和上が京都から大阪のあるお寺に御講話に行かれようとして電車に乗られました。その電車が向日町に着いた時、知り合いの同行が乗って来て先生の前に腰かけられました。多分お二人の間に法談の花が咲いた時のことでしょう。この同行が、

「和上、和上には信心がありますか。」
と、ぶしつけに問われたそうです。その時和上は、
「さあ、あるやらないやら。」
と答えられました。

同行が、
「和上さんでもまだそんなことですか。」
と、問い返して来た時に、
「あるやらないやら解りませんが、この浅ましい私が、大悲の親様の御手に抱かれていることは、おかげさまで味わうことができます。」

と、お答えになったそうです。さきにも申しました通り、私が同行から伝え聞いた話でありますので、お二人の間の言葉のやりとりには、多少の相違があるかもしれませんが、私はこの会話を通してK和上の温和な人柄がなつかしくしのばれると共に、お慈悲の聞きぶり信じぶりに用事がなくなって、御本願一つをすっきり仰いでゆかれる他力信心の風光が鮮かに伺われます。よくお同行の中に、

「私は信心をいただいている。」

と、強く主張する人がありますがそんな言葉を聞いた時私は、

「それは本当でしょうか。間違いありませんか。自分の心で思いかためた信心ではないのですか。」

と、もう一遍、念を押してみたい気持ちが致します。

 信心正因とは聞法を通して大悲に目覚めた時、すなわち摂取の光明に照護され、お浄土への道へと方向転換させていただくことを言うのであります。その点、返す返すも間違いのないよう、よくよく聞かせていただきましょう。