第七章 信心の利益 その二

摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者 是人名分陀利華

摂取の心光、常に照護したもう。已(すで)に能(よ)く無明の闇を破すといえども、
貪愛・瞋憎(とんないしんぞう)の雲霧(うんむ)、常に真実信心の天に覆えり。
たとえば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下明かにして闇無きが如し。
信を獲(え)て見て敬(うやま)い大いに慶喜(きょうき)すれば、即ち横(おう)に五悪趣を超截(ちょうぜつ)す。
一切善悪凡夫人、如来の弘誓願を聞信(もんしん)すれば、
仏、広大勝解(こうだいしょうげ)の者(ひと)と言(のたま)えり、是の人を分陀利華(ふんだりけ)と名ずく。

 み仏の光明は常に信心喜ぶ人々を摂取し、照し護り給うのであります。従ってその人々は己に本願を疑う心の闇は晴れてはいますが、過ぎし世の業の絆(きずな)の内にある身ですから、貪(むさぼ)り、愛着、怒り、憎しみの煩悩の雲や霧は絶間なく信心の上に覆いかぶさってきます。けれども、それによって往生いかがという不安はありません。例えば日光を雲や霧が覆って、その光をかくしても、雲や霧の下は明るくて闇の無いのと同じであります。信心を獲れば心にみ仏の慈悲を思い浮べて、喜びの心が湧いてまいります。そこには、本願他力の働きによって迷いの世界に沈む絆は断ち切られるのであります。総ての善人悪人の凡夫も、み仏の救いの誓いを信ずれば、お釈迦様始め、あらゆるみ仏から、広大の法の勝れた理解者であり、華にたとえて白蓮華のような美しい気高い人と賞(ほ)められるのであります。

一 光明の中に

 信心の利益の第三番目は、光明に摂取される利益であります。このことを親鸞聖人は和讃に、

  煩悩に眼(まなこ)さえられて 摂取の光明見ざれども
  大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり (p595)

と詠われています。

 この意(こころ)は、煩悩に眼がさえられているから、み仏を見ることは出来ませんが、み仏は常に私を摂取したもうというのであります。

 私は学生時分にこの和讃を拝読するたびに、一つの矛盾を感じました。煩悩によって仏を見ることができない。それはよく頷(うなづ)けますが、それならみ仏が摂取し給うていることをどうして知ることができるでしょうか。

 これについていろいろ思い悩んで来ました。ようやく疑問を解く糸口が開けましたので、恩師山本仏骨先生とこんな対話を交したことがあります。

 「先生、この和讃の矛盾についてこう考えますがいかがでしょうか。凡夫の眼に摂取の光明は見ることはできませんが、どうして摂取されていることが知れるかについて、九条武子夫人の歌に、『これはこれ御加被力(おんかびりき)とや申すらん おのずからなる心のなごみ』というのがありますが、お念仏を喜ぶ生活には、煩悩を持ちながらも、おのずと心のなごみが出てまいります。それは光明の中に摂取されているからでしょう。」

 「そうした味わいも否定はしないが、私はもう少し深いところで味わっている。」

 「それはどういうところでしょうか。」

 「往生論註(曇鸞大師著)という書物の中に、『非常の言は常人の耳に入らず』という言葉があるが、私が本願を疑いなく信じているここに摂取の光明に抱かれてあることが味わえる。摂取の光明と言えば何か唯(ただ)外側から私を包んでいるように聞こえるが、そうではなくて、私の心中に入り込んで、内から私の疑いの闇をはらして下さる、ここに光明の摂取の働きが知らされる。」

 30年程前に聞いたこの言葉が、今私の脳裡に甦って来ます。誠に疑い深いこの私が、今如来の本願に頷き、お念仏をする我が身の上に、摂取の光明の働きが暖かく感じられてまいります。このことを「摂取心光常照護 已能雖破無明闇」と仰せになりました。

 けれども私が今仏になったと言うのではありません。命終るまで煩悩を一杯持った私でありますから、縁に触れては怒り、腹立ち、そねみ、ねたみの煩悩が次々起ってまいります。然しそれによって往生についての不安はなく、こんなあさましいやつをお救いの本願と仰いでゆくのです。そうした風光を「すでによく無明の闇を破すといえども貪愛瞋憎の雲霧常に真実信心の天に覆えり。たとえば日光の雲霧に覆はるれども雲霧の下明かにして闇無きが如し」と仰せになったのであります。

二 迷いの道は断ち切られて

 信心の利益の第四番目は、信心いただき、往生は一定(いちじょう)と安心するところに、み仏の願力の働きによって、迷いの道は断ち切られて、はや自分の力で地獄に堕ちようとしても堕ちることの出来ない身に定まった利益であります。

 「信を獲(う)れば見て敬い、大いに慶喜すれば」とは、聞法を通して私を救うと働きかけて下さる大悲の呼び声に目覚めたときに、心にみ仏の慈悲を思い浮かべ、敬う心と共に、救われた安心の喜びが恵まれるということであります。ここに迷いの絆は願力不思議の働きによって断ち切られました。この事を先にも挙げましたが、聖人は和讃に

  金剛堅固の信心の さだまるときを待ちえてぞ
  弥陀の心光摂護(しょうご)して ながく生死をへだてける

と詠われました。そこに帰るべき命のふる里を知らされて、心豊かに生きる生活が恵まれるのであります。

 心豊かに生きるとは、心にゆとりを持って生きることであります。私は最近こんなことをしみじみ思うのです。後何年の命か知るよしもありませんが、たった一度限りの人生を、奇(く)しくも人としての尊い命を恵まれて生きるのですから、残された命を大切にして力一杯心豊かに生き抜きたいと。

 心豊かにとは相手の身になり、或る時には広い心で許し合い、或る時にはやさしい気持ちでいたわり合いながら、美しく生き抜くことでしょう。

 私のお寺の照明(しょうみょう)会の会員の竹下鶴子さんが、こんなことを言われました。

 「先生、私は今まで教職にある主人について県内各地を回っておりましたが、定年になり日置に帰って来ました。日置に帰って来て、本当によかったと思うのです。それはお寺に御縁が結ばれ、聞法する身にならして頂いたからです。そうして私自身の過去を振り返り、現在を見た時に、変わらして頂いたなあとしみじみ思います。それは、人の苦しみ不幸には私の胸が痛み、人の幸せには素直によかったなあと喜ばれる身にさせて頂いたことです。」と。

 この言葉を聞いた時に、思わず素晴らしいなと感じました。私達凡夫は、ややもすれば人の苦しみ不幸を見た時に、口には気の毒になあと言いながら、心の底には何かほっとした気持ちが動かないでしょうか。また、人の幸せ、喜びには口ではよかったですねえと言いながら、心では何か割り切れないねたましい気持ちが動かないでしょうか。

 お釈迦様は大無量寿経に「心口各違(しんくかくい)言念無実(ごんねんむじつ)」と説かれて、心と口とは違い、又言うこと思うことに真実がないと仰せになりました。こうした姿が宿業に生きる悲しき凡夫の生きざまであります。

 そうした中にあっても、人の悲しみに胸が痛み、人の喜びを素直に喜べる、それはみ仏の大悲に触れ、大悲に育てられて自ずと恵まれる心のゆとりであります。

三 み仏にほめたたえられて

 第五番目の信心の利益はみ仏にほめたたえられる利益であります。

 親鸞聖人はみ仏の教えを通して磨かれた鋭い内省の眼で人間を見つめられた時に、「一切群生海無始よりこのかた、今日今時に至るまで穢(え)悪(あく)汚(お)染(ぜん)にして清浄の心なし虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」(教行信証・信の巻)即ち生きとし生けるもの、量り知れない遠い古(いにしえ)から今日今の時に至るまで真実の智慧をもたない、無明による我執の煩悩に汚されて、清浄の心もなく、又うそ、いつわりによって真実の心なしと仰せになりました。この姿を更に具体的に「一念多念文意」に

 「凡夫といふは、無明煩悩我らが身にみちみちて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえずたえず」

とお示しになっておられます。この凡夫の姿の上に、親鸞聖人は自己を発見されたのであります。それは聖人の言葉によって窺われます。

 「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証(さと)りに近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷むべし」

と仰せになりました。この意味は親鸞はみ仏の救いのみ手にあり、浄土に生まれる身でありながら、心は愛欲と名利にさまようて、救われた喜びも浄土に近づくことを楽しむ心も起らないとの嘆きの言葉であり、また悲嘆述懐和讃にも

  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実の我が身にて
  清浄の心もさらになし

  悪性さらにやめがたし
  心は蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
  修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるがゆへに
  虚仮(こけ)の行とぞなづけたる 

と述べておられます。このように罪深き悲しき凡夫ではありますが、ひとたび如来の本願を信じ念仏喜ぶ身になれば釈迦如来はじめあらゆる仏がほめたたえられるのであります。このことを

  一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば 
  仏、広大勝解の者(ひと)と言(のたま)へり。この人を分陀利華と名づく。

と讃嘆されたのであります。

 広大勝解の者とは、広大の法をよく理解した勝れた人の意で、それはこの世にありながらこの世を超えた永遠の世界から呼び給うみ仏の呼び声に目覚め頷く人を賞め讃えられた言葉であります。ま

 た分陀利華とはインドの言葉で、中国の言葉に訳して白蓮華(びゃくれんげ)と言います。白蓮華は泥の中より咲き出て泥に染まりません。本願に頷く信心の華は煩悩の中に咲き出て煩悩に染まりません。この風光を善導大師は、

  衆生の貪瞋(とんじん)煩悩の中に、よく清浄の願往生心を生ず

と仰せになりました。お釈迦様は「観経」に念仏する人を「人中の分陀利華」と説かれ、この意を承けて善導大師は「人中の好人・人中の妙好人(みょうこうにん)・人中の上上人(じょうじょうにん)・人中の希有人(けうにん)・人中の最勝人(さいしょうにん)」すなわち好き人・妙なるゆかしい人・この上ない人・まれなる人・最も勝れた人と讃えられたのです。

 親鸞聖人は煩悩いっぱい持ったこの身のまま、み仏から賞め讃えられることに無上の感動と感激をおぼえられました。お念仏を喜び、大悲を仰ぎつつ生き抜かれた聖人の胸には、常にこんな思いが流れていたのではないでしょうか。

 99人の目の見えない人に賞められて何が嬉しかろう。99人の目の見えない人にそしられて、何がさみしかろう。真実の智慧の眼を開かれた仏様に賞められてこそ人間としての本当の生き甲斐、喜びがあると。

 思うに聖人のこの感激感動は、そのまま今日念仏を喜ぶ私達の感激感動でもあります。煩悩を持った恥ずかしい私ではありますが、その深い内省の上にたって、み仏に賞められている自覚と喜びの中に、いよいよ自らをたしなみつつより美しい、豊かな生活をする。ここにお念仏者の生き方があると申せましょう。誰が詠まれたか次のような歌があります。

  おほけなけれど報恩に
  心傾けこの村に
  み法の蓮(はちす)咲き匂う
  浄土の影を宿さなん