第四章 人間の生きざま

 先生、宗教とはつまり倫理道徳を守る為にあるんでしょう。

一、本能的生活

 法座話合いの場に於てよく出る質問であります。今日宗教の必要を認める人達でも、倫理道徳を守る為に宗教があるのだ、宗教がなければ倫理道徳は守れない、と考えている人がたくさんいます。殆どの人が皆こんな考え方ではないでしょうか?

 だからお寺参りするクセに、という言葉をしばしば耳にするのもその為でしょう。しかし宗教は倫理道徳の為にあるのでしょうか?もしそうであれば、倫理道徳を美しく守るならば、宗教はいらない事になります。私達はこの問題について、はっきりと理解しておかなければなりません。

 この事を思う時、私は二十数年前、深浦正文博士が三つの項目をあげられた事が浮んで参ります。それを基本としてこの問題について、考えてみたいと思います。人間の生きざまについて、

 一、本能的生活
 二、倫理的生活
 三、宗教的生活

以上の三つがあります。

 本能的生活とは、人間が生まれた生地のままの生き方で、教育修養の磨きのかからない本能のままに生きる生き方です。それは人がどんなに迷惑しようが社会にどんな害を与えようが自分さえ良かったらいい、という己れ本位の生き方です。例えばここに数匹の子犬が遊んでいます。そこに一片の肉を投げると今迄仲良く遊んでいた子犬は、忽ちその肉を奪い合って、すさまじいケンカになります。そうして結局強い犬が弱い犬を追い散らしてそれを一人占めにします。そこには長幼の序とか、弱い者を労わり譲り合うとかいう姿は見られません。つまり弱肉強食の姿、これが本能的生活であります。

 ある日一人の主婦が、小さい子どもを連れて店で買物しようと品物を注文しました。店員がその品物を取りに店の奥に入り、主婦は財布から紙幣を出して待っていましたら、店員が出て来て、

 「すみませんが今、品切れになっています。向こうのお店にありますから。」

と言われたので紙幣をつまんだまま子どもを負ぶって数歩歩いたら、後から来たスリがそれをスッと抜き取って、人混みの中に姿をくらましてしまいました。

 ここで思う事は、紙幣を抜き取ったら相手がどんな迷惑をし嫌な暗い思いをするかと言う事を全く考えず、この金で酒でも飲めばそれだけ得だという自己本位の生き方、こうした生き方が本能的生活で、これは生活の名に価しない、生存とでも言うべきもので人間以下の生き方、と言わねばなりません。現在の世相を諷刺して、

 “物に栄えて心に亡ぶ”

という言葉があります。今日、自由の美名のもとにこうした自己本位の生き方が、私達の周囲にあまりにも多く見られます。正に、物に栄えて心に亡び行く姿ではないでしょうか?

 思うに現代人の生きる理想、目標として掲げられた民主主義自由主義は、いつの間にか民主主義は我がまま主義、自由主義は勝手気儘な放縦主義にすり替えられて、その結果が今日の社会の姿になった様であります。それは取りもなおさず、よく言われる民主主義のはき違いによるものでしょう。

 言うまでもなく日本の民主主義はアメリカより移入されたものであります。アメリカの民主主義の一番の元は、奴隷解放の父といわれたリンカーンが、奴隷解放の為の南北戦争に勝利をおさめた時にその戦場で宣言した。

 「天にまします神と、地に眠れる英霊に感謝して、民衆の民衆による民衆の為の政治を行ない、自由と平等を確立する。」

という言葉によるものであります。この民主主義が日本に伝えられた時に、「天にまします神と、地に眠れる英霊に感謝して」の部分がカットされて民主主義とは、

 「民衆の、民衆による、民衆の為の政治。」

という風に伝えられました。つまり正しい民主主義とは、宗教に支えられてこそ初めて美しく花を開き実を結ぶのであります。日本に移入された時、宗教の支えがはずされていた,ここに大きな原因のある事を見落としてはなりません。

 しかし如何に民主主義がはき違えられて本能のままに生きる自己本位の生き方を続けていても、人間は教育教養の磨きによってやがてそれに満足できなくなります。人の批判を恐れるからというのでなく私自身の良心が、それを許さないのです。そこに何とか人間らしい生き方をしようという動きが自然と出て参ります。それが次の倫理的生活と言われるものであります。

二、倫理的生活

 人は皆それぞれ良心を持っています。この良心が色々な教えによって磨かれ目覚める時に俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じず、という言葉がありますが、人にも自分にも恥じない生き方をしようという願いが湧いて参ります。それが倫理的生活です。これは正しい仕事を正しく働き、正しい利益で正しい生活をする事だと言われています。

 仕事の中でも正しい仕事と正しくない仕事があり、報酬利益についても正しい物と正しくない物とがあります。例えば泥棒を働いたり、又暴力団が人の弱味につけ込んで暴力で金を巻き上げたりする事は正しい仕事とはいえません。又たとえ社会が正しい仕事と認めたものであっても、社会や人の目を巧みにごまかして暴利を貪る様な事も、今の社会にはしばしば行われていますが勿論、正しい利益、報酬とは言われません。

 これに対して、同じ働くにしても正しい仕事に就き正しく得た利益で社会にも人にも迷惑をかけない、また、それぞれの分に応じて社会に奉仕する等の生き方、これが正しい生活といわれるものであって、前の本能的生活とは格段の違いがあります。これによって社会の秩序が美しく保たれて行くのでありますから、これが大切な事は言うまでもありません。

 今日、多くの人々にはこの生活が人間として最高の理想の生活であり、教育も宗教もこの正しい生活をする為の手段、方法として考えられがちです。けれどもこの倫理的生活は、決して人間最高の生活ではありません。それは正しい生活とはいえても、いまだ尊い生活とは言われないからであります。

 倫理的生活の段階では自分の力で自分が働き、自分の得た報酬によって自分が生活している。言い換えれば自分の力で自分が生きているのだ、という考え方に立っています。ここには権利義務の関係だけで結ばれて、ありがたいとか勿体ないとかお陰様で、という豊かな感情は生まれてきません。

 従って倫理的生活は、正しい生活と言えても尊い生活とは言われないのです。もし私達の生活が家庭的にも社会的にも権利と義務だけの関係だけで営まれるとするならば、誠に潤いのない殺風景なものとなるでしょう。近く親子の関係についても、果して権利と義務だけで割り切ってしまう事ができるでしょうか?親は子どもを成人するまで育てる義務がある、子どもは育てられる権利がある、そうとらえるような所に温い親子関係が生まれる筈がありません。これはただ親子関係だけでなく社会的な対人関係についても同じ事がいえるでしょう。

三、宗教生活

 この次の段階に現れる生活が、宗教生活であります。倫理的生活が正しい生活と呼ぶのに対して宗教生活は、尊い生活といえるでしょう。この事について今少し考えてみたいと思います。ロシヤの文豪トルストイは、

 “宗教は心の方向の転換なり”

といみじくも申しています。即ち今迄、外に向いていた眼を内に向ける所から始まるのです。

 私達の日常の会話の中でよく言いますが、

 「あんた何処を向いているのか、もっとしっかり目を開いて見て御覧なさい。」また、

 「あんたそんな無理な事を言わず、じっと目をつむって考えてみなさい。」

と。ここで言える事は物の見方に、目を開いて見る見方と目をつむって見る見方との二つの見方があります。目を開いて見る所に科学があり、目をつむって見る所に宗教が開かれます。科学は、肉眼で足りない所を望遠鏡や顕微鏡の力を借りて、対象をよく見極めて、そこにある原理を実験実証によって確かめ、それを人類の上に応用して、その福祉を図るものであります。

 宗教は、あくまで自分自身を問題にしていきます。自分自身の心を深く掘り下げて行く時に、美しく正しく生きたいと願いながら、空しく崩れて行く自分自身の果(は)敢(か)なさ、空しさを知ります。

 踏みしめて立たんとすれど砂浜の
 砂のくずれの 悲しかりけり

そこに人間の悲しさ、醜さ、弱さを気付かされます。しかし闇は闇を知る事は出来ません。闇を知るものは光です。

 松蔭の暗きは月の光かな

己が浅ましさ罪の深さを知る事は、既にみ仏の光にあえばこそであります。聞法を通して、己が醜さ罪の深さに目覚めつつそのままみ仏を仰ぐ生活には自ずとありがたい、勿体ない、お陰様でという豊かな宗教感情が生まれて参ります。

 私の母が朝起きて部屋の掃除をしながら、

 “今日もまた箒取る手の嬉しさよ
  空しく散りし人を思えば”

という歌を口ずさんでおりましたが子どもの私には、この母の姿を美しいなあ、と感じた事でした。宗教生活は一生懸命つとめ励みながら、その功を誇らず、なおお陰様と御恩を仰いで行くのです。この感謝の生活こそ、人として一番美しい生き方ではないでしょうか?これを尊い生活と言うのであります。

 ここに私達は人間の生きざまについて、本能的生活、倫理的生活、宗教的生活の三つがある事を知りました。この三つの中で私達はどの生き方を選ぼうとするのでしょうか?静かに考えてみたいものです。