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第十三章 命終われば

 先生、命終ればどうなるんでしょうか。
 さあ、あなたがたはどう考えますか?

一、二つの心の動き

 数年前、私の親友三島清尚師のお寺、南隅組大円寺に彼岸の布教に招かれました。夜の席は壮年を中心とした法座を持たれましたので、御住職の要望によって前席を講話にし後の席を話合いにした時話題にのぼったテーマです。

 命終ったらどうなるでしょうかとの一会員の問いに対し私はすぐには答えずに、皆さん方はどう思われるでしょうかと、問いを投げ返しました。そこにいろんな答えが帰って参りましたが、

 「人間は死んでも魂は生きているのじゃないでしょうか?」
そうした気持ちの方が大部分の様でありました。その中で一人34、5の男の方で法政大学を出た人だそうですが、
 「私は人間死んだらそれでお終(しま)いと思います。」
 「あなたがそう考えられる理由は?」
 「精神といっても魂といってもそれは肉体が有っての事です。肉体がなくなれば、精神活動は停止してそれでしまいでしょう。」

 「貴方がお終(しま)いと言われる気持ちはローソクの火が消えた様な、又水の泡が消えたと言う様な状態を言われるのですか?」
 「そうです。」
「あなたの気持ちが大体解りました。この事について、ほかの方の気持ちはどうでしょうか。」
と問いを他の人々に投げかけました。

この人の考えに同感する人もありますし、またそうした考えでは人間は淋しいのではないか、という様な意見も返ってきました。大体意見が出尽くした様でありますので、私は先のかたにもう一ペン問いかけてみました。

 「あなたは御両親は御元気ですか?」
 「はい、父は元気で今夜も一緒に参っておりますが母は亡くなりました。」
 「じゃあなたは、おかあさんの亡くなられた時にはお葬式はされましたか?」
 「勿論です。」
 「では四十九日の御供養(くよう)は?一周忌三回忌の御法事は?」
 「勿論つとめました。また毎月命日には、先生に来て頂いてお経をあげて頂いています。」

 「それじゃあなたは何の為にそれをされたんですか?葬式法事をしないと世間体が悪いからでしょうか?」
 「いや世間体の為ではありません。」
 「それではおかしいではありませんか。人が死んでローソクの火が消えた様に、また水の泡が消えてしまった様に何にも残らないのであるならば、葬式法事は全く意味の無い事で無駄事にならないでしょうか?」
その方は私の問いに、じっとうつむいて答えられませんでした。

そこで私は言葉を続けて、
 「御葬式法事、又命日に先生に来て頂いてお経をあげて頂かれた時に、たとえ姿は見えなくともおかあさんがどこかの世界で喜んでいらっしゃる、又貴方自身それを感じてホッとした安心した様な気持ちはないでしょうか?」
 「そうです。確かにそんな気持はありますね。」

 「そうすればあなたの心の中には二つの動きがある様ですね。一つは死ねばそれでお終(しま)いで何も残らないという気持ち。今一つは姿は見えないがどこかの世界に生きておられるという様な気持ち。
 「そう言われたならば確かにそんな二つの気持ちがありますね。」

そこで私は又外の人達に、

 「先程人が死んでも何か生きていると言われた方も、そう言いながら、死ねばしまいになるんだという気持ちはないでしょうか?」
と問いかけましたら,
 「先生、確かにあります。」
 「そうすれば死ねばお終(しま)いだと言われたこの方も、何か生きているのだと言われた皆さん方も結局同じで、死んだらお終(しま)いだと言う気持ちと、やはり何か残るんだという気持ちと両方ある様ですね。」

 「そうですね。先生ではどちらが本当でしょうか?人間死ねばどうなるんでしょうか?」
 「そうですね。今晩大分時間が遅くなった様ですからこの辺で置いて、一晩皆さんもこの問題について考えてみてください。」
とその晩は終りました。
 あくる日の夜の席で昨夜と同じ様に一席お話をして、後の席を話合いにしました。
 「先生、夕べの問題が残されていましたが、人間死んだらどうなるのでしょうか?」
と早速質問をしてこられました。

私は、
 「はっきり言えばそれは私には解りません、と答えるしかありません。あなた方と私は同じ人間ですから、あなた方の解らない事は私も解らないのは無理のない事でしょう。但しこの問題についてお釈迦様や親鸞聖人はどう解かれたか、又あなたはどう信ずるかと問われたら、私もお寺に育ち小さい間から宗教的に躾を受け、又若い時から少々仏教を勉強してきましたので私なりに答える事は出来ます。」
 「先生それが聞きたいんですよ。」

と問われてその問題について、色々話し合った事であります。その事をふまえて、次の節で考えてみたいと思います。

二、命の流れ

 この問題について思い巡らした時に、私にはかって尊敬する先輩(串本喜美女史)から聞かされた鮮妙和上のお話が浮かんで参ります。

 広島県竹原市は、日本外史という有名な歴史を書かれた頼山陽(らいさんよう)先生がお生まれになった所です。この地に山陽先生の何代目かに当る方で、頼鷹二郎(たかじろう)という先生が居られました。この方は儒教を学ばれたのでありますが、この地方は真宗王国と言われて真宗繁栄の土地であります。そうした関係もあって真宗の教えには若い頃から関心を持っておられました。

 仏教では人間死んだ先に地獄があり、また極楽があると説かれるが、本当にそんな世界があるのだろうかと考えてみた時に、どうもそんな世界がある様に思われません。かといって、昔の高僧達がそれを信じて命がけで修行しておられる事を考えると、全く根も葉も無い事とも思われない。そんな疑問が何時も胸に動いていました。

 けれども儒教では相当名の知れた学者であったので、その辺の田舎の坊さん達に聞いても到底、満足出来る様な答えを受ける事は出来ないだろう。誰か偉い坊さんが見えたならば、徹底的にこの事を聞いてみたいと思っておられました。

 その時たまたま利井鮮妙(かがいせんみょう)和上が竹原の照蓮寺にお説教に見えました。利井鮮妙和上といえば当時、日本随一の学匠、又生きぼとけ、と仰がれた人であります。広島の安芸門徒の人々は、和上の居られる大阪の東五百住(よすみ)の方角を見た丈で何か心が安まると言われていたそうです。鷹二郎先生は良い機会と思って早速参詣され、後で講師部屋に鮮妙和上を訪ねて、

 「私は儒教を少々勉強しましたが仏教の方は良く解りません。何でも仏教では死んだ先に地獄があり極楽があると説かれている様でありますが、本当にそんな世界あるのでしょうかうか?」

 と尋ねられた時に鮮妙和上は座布団より下りて、鷹二郎先生の前に両手をついて、

 「恥ずかしい事でございますが、鮮妙にはそうした世界があるか無いか解りません。」

と答えられました。この思わぬ答えに鷹二郎先生は驚かれました。日本随一の学匠、生仏(いきぼとけ)と仰がれた方でありますから、定めし色んな経典を引いてその存在を証明されるだろう、と思っておられた所、全く以外な言葉にしばし唖然としておられましたが、やがて、,

 「あなたがたは有るか無いか訳の解らないそんな話を、よく解った様な顔をして人に話が出来ますね。」

これは皮肉でなくて、真剣に真理を求めておられた鷹二郎先生なればこそ、思わず洩れ出た鋭い言葉でした。その時鮮妙和上は、

 「解らんなればこそ、解ったかたの言葉を信じさせて頂くのです。」 

この一語が鷹二郎先生の胸に鋭く突き刺さりました。先生は両手をついて、

 「まこと失礼な事を申しました。私は今初めて信仰の世界が解りました。」
と言われたそうです。

 私はこの二人の方の会話に襟を正す思いがするのです。武道でいえば、剣の名人と名人との果たし合いの様なものを感じます。一分の妥協も許さない、すさまじい真剣勝負、真実を求めて一切の虚栄を捨てて、人間と人間との激しい命のふれ合い。それは信仰を求めてゆく過程に於いての、こよなく美しき姿とも思われます。それは法然聖人と親鸞聖人との出遇いも、こうした姿じゃなかったかと連想されます。

 私は命の流れについて思いを巡らす時に、先ずこのお話が頭に浮かぶのでありますが、これをふまえて、この問題について更に考えてみたいと思います。

三、命の考察

 西洋の哲学者の言葉に、

 “死は人生の永遠の謎”

という言葉があります。肉身に死別した人々は悲しみの涙の中に誰しも感ずる言葉であります。謎とはやがて解けていくべき性質のものですが、死だけは永遠に解かれない謎というのであります。この死を命という言葉に置き換えても良いと思います。誠に命は永遠の謎というべきでしょう。この命について古来より思想家・哲学者・宗教家によって、色々考察が加えられて来ました。けれども命の永遠性については一致した共通点の様であります。

 かって私が読んだ本の中にこんな話が書かれていました。西洋の或る詩人が夜の更けるのも知らず思案にふけていました。その時遙か彼方の暗の中から、光に誘われて一羽の小鳥が南の窓から飛び込み、明りの下を数回飛び回っていましたが、やがて北の窓から深い闇の中に消え去っていきました。それをじっと見つめていた詩人は、

 “人の命はかくの如きものか・・・・・”

と一人つぶやきました。明りの元から消え去り暗く深い闇の中を飛び続けているであろう小鳥の上に、命の永遠性を感じたのであります。

 この問題について、今代表的な捉え方をあげますと、儒教(孔子)とキリスト教、仏教の三つに尽きる様であります。孔子はこの世の一世について説かれ、キリスト教はこの世と未来の二世について説かれました。仏教は過去現在未来の三世に亘って説かれているのであります。

 孔子の言葉によると、“我生を知らず,いずくんぞ死を死らんや”と言われて、“私は何処から生まれてきたか解りません。従って死後どうなって行くか知る由もありません。よって解っている人間一生の間、守るべき人の道を説く”と言われて説かれたのが、仁義礼知信の五倫五常の教えであります。孔子は命の永遠性を否定されたのではなくて、ただ人間の知識では認識する事の出来ないものである、と言われたのであります。

 キリスト教では二世について説かれたという事は、人間は神に依って創られましたが神の意志に背いて禁断の智恵の木の実を食べたから、天国から追放されました。けれどもキリストのしょく罪を信じ、祈りと懺悔によって(この世の)罪が許されてやがて天国(未来)に召されてゆく、と説きます。

 こうした考え方に対して仏の教えは、

 “人の命の流れは初めも無く、終りも無い無始無終”

と説かれて、その流れの間に造る善悪いろいろの行為、即ち業によって、未来に苦楽の果報を受けて行くと説かれるのであります。即ち過去、現在、未来の三世に亘って説かれたのが仏教であります。この事はお釈迦様は、

 “過去に造った業を知ろうとするならば、今受けている果報をみればよい。未来の果報を知ろうとするならば、現在為しつつある業を反省してみればよい”

と説かれました。

 これによって知る事ができる様に、人間命終わればどうなるんでしょうかと、もしお釈迦様に問うならば、おそらく、

 “あなた方がの造っている善悪様々の業によってそれ相応の苦楽の果報を、次の生に受けていくのですよ”

と仰せになるでしょう。即ち私達迷いの凡夫は作り出す所の迷いの業によって、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上と六つの迷いの世界を生まれては死に、死んでは生まれつつ流転していくのであります。これを六道輪廻と説かれました。

 この事はもとより、科学的な実験実証によって認識されるものではなくて、教えの光に照らされた深い内省の心(宗教的な主体的内観)に受け止められていくものであります。

 六道の六つの世界を流転するといいましても、地球の彼方の遠い星の中にあって、今より数万倍の精巧な望遠鏡が発明された時に、それによって写し出される様なものでは勿論ありません。

 では六道とはどんな世界でしょうか?これについてお経の中に、一水四見という事が説かれています。それは一つの水を天人は美しき瑠璃(るり)と眺め、人間は水と見ます。餓鬼には炎と写り、魚はこよなき棲家(すみか)と感じます。それと同じ様に六道の世界は個々別々に存在する世界でなくて、それぞれの業によって感じて行くのであります。これを業感縁起(ごうかんえんぎ)と説かれています。それは、私の作った業によって、私自身が感じていく世界であります。

 この事について真宗の某高僧と渡辺崋山先生との間に交わされた次の様な問答が伝えられています。
 「地獄極楽は本当にあるのか?」
 「そんなものは無いわい。」
 「それはおかしい。今迄の坊さん達はあると説かれたが、本当に無いのか?」
 「あるわい。」
 「あんたは先に無いと言い、問い返したらあるという。どちらが本当か。」
 「どちらも本当だ。」
 「あんたは私を愚弄するのか?」
 「お前の胸に地獄の業をつくればあるわい。造らなければ無いわい。あるか無いかワシに聞くよりお前の胸に聞け。」
 これから渡辺崋山先生は、謙虚に仏教を聞く様になられたのであります。

 即ち地獄といっても何処かにそんな恐ろしい世界が私を待っていると言うのでなくて、私の造る悪業が次の生に地獄の果報を感じていくのであります。その事を私達の祖先は誠に巧みに歌っています。

 “火の車、造る大工は無けれども、己(おの)が造りて己が乗りゆく”

と。自己の深い内観の上に、そうした世界を感じていくのであります。 親鸞聖人はこの事を、

 “いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし”(『歎異鈔』)と仰せになりました。

 こうした私が南無阿弥陀仏のおいわれを聞き聞く事によって、仏の力が我が力となって今迄造った悪業煩悩は、この仏の願力によって悉く打ち破られますから、やがてお浄土に生まれてみ仏の悟りを開かして頂くのであります。

四、問題は私にある

 およそ真実には、科学的真実と宗教的真実とがあります。科学的真実とは人間の知識で実験実証し、認識するものであります。宗教的真実とは人間の知識を超えたもので、それは私の生と死を支えるものであります。即ち、

 “これあるがゆえに生きられる。これあるがゆえに死なれる”

というものです。それは聞法によって知らしていただく如来の大悲であります。

 今日でもよく浄土の実在とか仏の存在について議論する人もありますが、それは科学と宗教を混同したもので、百年議論しても解決されないでしょう。何故なれば宗教的真実とは、人間の知識を超えたものであるからです。そうした議論よりも真実の如来の大悲がなくしては、まことの末通(すえとお)った幸せは無いという事を見落してはなりません。即ち問題は私の方にあるのです。

 私はこの事を思う時に昭和41年、北海道に布教した時の事を思い出します。或るお寺で御説教後、数人の御同行と車座になって雑談していた時の事でした。64、5と思われる男の方が、こんな話をされました。

 「私は55の時迄、一遍もお寺参りしませんでした。それはこの世は何と言ってもお金が一番で、お金さえあれば今の世の中はどうにでもなる。お寺参りする暇があれば働いて、金儲けした方が良いと思っていたからです。55の時、胃の調子が悪くて食欲が落ち、だんだんやせて来ました。

 医者に行ったところが先生はむつかしい顔して、大学病院に入院して精密検査を受けなさいと言われました。精密検査の結果、癌の疑いがあるとの事で手術する事になりました。手術の前の晩、ベッドの中で明日手術するがもし死んだらどうなるだろうかと思ったら行く先暗闇で、ただ死の不安と恐ろしさがひたひたと胸に迫ってきました。

 その時、今迄一処懸命働き抜いてきたけれども一番大切な生と死の問題を見忘れていた為に今となってはこれまでの苦労が全て水の泡であったかと思うと、一筋二筋後悔の涙が頬を伝わって流れました。そうしてもし万が一命があったら御法座のある時はどんなに忙しくても、大地を這ってでも、お寺参りしようと心に決めました。

 手術の結果、癌も初期の状態であった事と、出ていた場所が良かった為に、そこを切り取って命を取り止める事ができました。それからお寺で法座がある時には、どんなに忙しい時でも仕事をおいて御縁に遇わさして頂いております。今はただ、人間に生まれて良かったなあ、仏法に遇わして頂いて良かったなあ、との一言であります。」

と老いの目に涙ためつつ話されました。

 私はこのお話を聞いた時、襟を正す思いがしました。聞法を通して命の行くえを知らされた大きな安心と喜びの世界、私達にはもとより命の行くえは知る由もありませんが、解らなければこそ解った仏様の言葉に耳を傾けて行くのです。そこに仄(ほの)かに命の行くえを知らして頂き、力無くして終る時、彼の土へはまいるべきなり、の安堵(あんど)の思いが恵まれるのであります。

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