第十四章 私と宗教のかかわり合い

 今日の昼席は公務の為に鹿児島市に出張してお参りする事が出来ませんでした。明日も出張しなければなりませんので総代の責任上、今晩お参りしなければならないと思い家を出ましたが途中で、私は役目の為に参るのか自分の為に参るのか?とそんな事をふと思いました。考えてみると御法義は自分の為であると思った時、家を出る時の気持ちが間違っていたと反省する事でした。

一、一人一人の私の為に

 これは去る昭和53年10月、私のお寺の秋季永代経法要の晩の席の事でした。講師のお話が終わった後でしばらく車座に座り直して話合いをしました。その時総代の柳田実さんが、こんな発言をされたのです。私はこの言葉にふと胸を打たれると共に、住職として嬉しく思いました。

 今日多くの場合、宗教は知らず知らずの中に自分の為である事を忘れて人の為の様に思っている人が多い様に思われます。特に知識階級の人々にはその感じを強く受けます。我々には必要ないが一般の人々には…という気持ちです。またお寺の役をしている人は役職だからお参りしなければならない、という気持ちが強い様であります。それと共に、お寺を思う心が何時も働くからだと思いますが、一人でも多く参詣して欲しいという善意からつい御教えを他人に聞いてもらおうと考え、自分が聞こうとする事を忘れ勝ちになっている場合が多い様です。

 そんな事を思う時にこの総代さんが、お寺参りは役職の為ではない。自分自身のためだとそこに目を向けられた事は当然ながら素晴しい事と思います。まことに宗教とは私自身の問題である事を見落としてはなりません。

 円如(えんにょ)上人は、

 “往生は一人のしのぎなり
 一人(いちにん)一人仏法を信じて後生をたすかることなり。
 よそごとのやうに思ふことは
 かつはわが身をしらぬことなり。” (『蓮如上人御一代記聞書』)

と仰せになりました。また親鸞聖人は、

 “弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)が為なりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ”(『歎異鈔』)

と仰せになっています。

 すれば宗教は人類の為でもなければ、人々の為でもありません。私達は常になにげなく人類とか社会の人々という言葉を使っていますが、よく考えてみればそうしたものはこの地上に存在していません。存在しているものは煩悩の中に明け暮れして悩み苦しみつつ、生きんが為に額に汗して働いている一人一人の私だけであります。この一人一人の私の上に仏の救いの慈悲は注がれているのです。

 昔から、卵が先か鶏が先かという議論がありますが、今現に私の前に餌を食べ時を作っている鶏、また掌中にある卵を見忘れて、ただ鶏が先か卵が先かという議論を百年繰り返していても、全く無意味な事で解答は生まれません。この鶏・この卵と、「この」字を加えた時に、即座に問は解決されます。

 宗教の救いも現に苦しみ悩みつつあるこの私の問題として受け取らねばなりません。

 中国の善導大師は、

 “自身は現に是れ罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没(もつ)しつねに流転して、出離(しゅっり)の縁あることなし”

という深い内省の上に、如来の救いを仰いでいかれました。

 この私の為という事について石見の善太郎さんにこんな話があります。善太郎さんの菩提寺が焼けました。やがて人々の苦労によって本堂が再建された時に、善太郎さんは本堂の丸柱に抱きついて、

 「この善太郎一人に仏法を聞かす為に、こんな立派な本堂が出来た。」

と、おいおい泣きました。その丸柱は善太郎さんの涙柱といって今に語り伝えられています。

 私は宗教は、私の為という所から出発する事を忘れてはならない、と重ねて強調したいのです。それでは私の為であるという事は、どんな事でしょうか?

二、精神修養の為か

 宗教は私の為と申しましても、それは私にとってどの様に関るのでしょうか。普通によく言われるのが精神修養という事であります。この言葉を広く解釈し善意に受け取れば間違ってはいませんが、しかし私には空々しい響きが感じられます。そこには前にも申しましたが宗教は倫理道徳を守る為の手段方法としての先入観が働いている様に思えます。又宗教は人類社会の為という気持ちが働いて、私自身の問題という事が忘れられている様に感じます。

 現に苦しみ悩みつつあるこの私の救われる道は、という事について思いを巡らした時に、精神修養の為という事で果たして落着く事が出来るでしょうか?人類社会の為人々の為に宗教が大切というのであれば精神修養という事で充分ではありますが、先に述べた通り宗教はこの私自身の為なのです。

 この私自身という事について、学生時分に恩師利井興隆先生から聞いたお話が思い浮びます。大正昭和の初期にかけて奇僧とうたわれた西村法剣(にしむらほっけん)師が、滋賀県の八幡のお寺でお説教されていた時です。

 法剣師は歎異鈔第三章の有名な「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや」・・・仏のお慈悲の前には自力修行の善人ですら、自力の心をひるがえしてみ仏のお慈悲に信頼すれば救われていく。まして悪人の為に起された本願であるならば、その本願を信ずる悪人こそ尚更救われねばならない。この悪人目当ての救いについてのお話でした。 

 お説教が終って講師部屋に帰って来られた時に、たまたま参詣しておられた八幡商業の校長八木先生が顔色変えて講師部屋を訪ねられ、

 「講師、今の様なお説教して貰っては困ります。」

と言葉鋭く詰め寄られました。法剣師は、

 「何か今のお説教に失言がありましたか?」

 「失言どころではありません。私達教育者は悪い事をするな良い事をせよ、悪人になるな善人になれよと教えています。それでこそ倫理道徳が守られ社会の秩序が保たれるんでしょう。それをあなたの様に善人よりも悪人が尚更救われていくという倫理道徳を破壊する様な説教されては困ります。」
その時法剣師は上座の座布団より滑り降り両手をついて、

 「先生、悪い事申しました。以後気をつけますから今回はお許しください。」

と平身低頭であやまられました。つべこべ理屈を言われたら徹底的につっ込んでやろうと意気込んで来られた八木先生も、意外な態度にやや拍子抜けして心もやわらぎ、

 「人間誰でも失言はありますが、あなたがたの様に大衆を相手にお話される方は今後よく気をつけてください。」

と言ってやがて、靴を履いて立去ろうとされた時に、法剣師は、

 「先生、しばらく待ってください。」

と呼び止められました。

 「何か用事があるのですか?」

と振り返られた時に、

 「あなたは一体善人ですか?」

と鋭い言葉が発せられました。その言葉にじっと腕を組んで考えておられる事二分三分、やがて元の席に戻って来られた八木先生は法剣師の前に両手を着いて、

 「御講師、知らない事と言いながら、誠に失礼な事を申しました。私は今初めて宗教の世界が解りました。」

と頭を下げられました。

 私は今もその事が鮮やかに胸に浮んでくるのです。誠に浅ましい煩悩を一杯持った私、み教えを聞けば聞く程どうにもならないこの私が知らされます。そうした私が救われる宗教はと尋ねた時に、精神修養という言葉で果して落ち着く事ができるでしょうか?

 勿論、先にも言った通り精神修養という事を否定するのではありません。しかしそれよりもっともっと深い所で私に関ってくるのが宗教であります。そこに自ずと慎しみたしなむ世界が開かれます。

 実如上人が、
 「仏法のこと、わがこころにまかせずたしなめと御掟(ごじよう)なり。こころにまかせてはさてなり(だめである)。すなはちこころにまかせずたしなむ心は他力(たりき)なり。」

と仰せになっております。精神修養よりも、もっと深い所で関る宗教とは私にとってはどんな事でしょうか?今少し掘り下げて考えてみましょう。

三、光に照らされて

 前節の終りに少し触れた様に、罪深い欠点多い私であるという自覚の所に、宗教がかかわるのです。それは言い換えますと、教えの光に照らされて真実の私の姿に目覚める事であります。

 相手を軽々と差し上げられる様な力の強い相撲取りでも、自分の体を自分で一寸たりとも持ちあげる事は出来ません。またどんなに良く見える眼を持っていても、自分の目で自分の眼を見る事は出来ません。それと同じ様にどんなに学問し、どんなに高い知識を持っていても、その知識で自分のありのまま姿を見る事は出来ないのです。

 そんな事があるものかと思われるかも知れませんが、これについて私は終戦直後、公職選挙が初めて行われた時の事を思い浮べます。私は恩師山本先生と井上智勇博士と三人で京都から帰って来ました。駅に降りますと選挙戦たけなわで選挙ビラが至る所にはられています。その時山本先生が、

 「私は政治家に対して御苦労さんという気持ちは持つが、偉いなあという尊敬の気持ちが起こらない。」

と言われました。私は、

 「それではどんな人に尊敬の気持ちが起こりますか。」

と尋ねたら、先生は、

 「ひたすら真理を探究する学者だね。」

と答えられました。その時井上博士が、

 「否、学者という者は象牙の塔にこもって学問ばかりして人間修養が出来ておらないので、学者の世界程醜い汚いものはないよ。」

と言われました。これは自分が見えていない事を意味しているのでしょう。私が、

 「それでは尊敬する人は無いではありませんか?」

と言いますと、

 「そうだね、尊敬できる人は結局、親鸞聖人と、そのみ教え素直に喜ぶお念仏の人でしょうね。」

という所に話が落ち着いたのです。

 私達のありのままの姿を知るという事は、私の中から出てはきません。私を超えたみ仏の光に遇う事によって初めて私のあさましい本当の姿に気付かされるのであります。なお言えば、闇を闇で知る事はできません。闇を知るものは光であり、氷を溶かすものは温かさであります。

 “松陰の暗きは月の光かな”

誠に聞法を通して仏の光に遇い、そこにありのままの恥かしい私の姿を知らされるのであります。

もう20数年前にもなるでしょうか?私の門徒の信仰の厚い竹内というお婆さんが参って来られて、しばらく二人でお茶を飲みながら、話していました。その時、

 「御院家(ごいんげ)さん、お恥かしい事でございますが、私の自性(じしょう)は誠に何処まで行っても頭の上がらない奴でございます。私の本心を申しますと、誰かが言われました様に、隣の家に蔵が建つ音よりも隣の家の蔵の壁の落ちる音の方が、私には快く響いて参ります。長い間み教えを聞きながら、何というあさましい奴でしょうか。」

と言われた時に私は、今迄気付かなかった私自身の腸(はらわた) をつかみ出し、バラッと目の前に広げて見せつけられた様に思いました。親鸞聖人が85才の時に作られた、『悲歎述懐讃(ひたんじゅっかいさん)』に、

 “浄土真宗に帰すれども
 真実の心(しん)はありがたし
 虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて
 清浄の心(しん)もさらになし”

 “悪性(あくしょう)さらにやめがたし
 こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
 修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆへに
 虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる”

 と悲歎されたのもこの心でしょう。誠に真実の宗教と私の関り合いはここに始まるべきであります。この事を思う時私は先にも述べた通りに、宗教を持たない人々には良い人であるけれども、惜しい事にまだ自分が見えていないなあと感じ、お寺に参る人は何かしら、良く自分がみえているなあと頭の下る思いがします。

 けれどもここで見落してならない事は自分の愚かなあさましい姿を嘆く心はただ嘆き悲しみに終るのではなくて、そこには汲めども尽きぬ深い喜びがあるという事です。何故ならば、光に照らされて自分のあさましさを知る事は、そのままが光に包まれているからです。そこには限りなき喜びがあります。親鸞聖人が

 “慈光はるかにかぶらしめ
 ひかりのいたるところには
 法喜(ほうき)をうとぞのべたもふ
 大安慰(だいあんに)を帰命(きみょう)せよ”

と詠われました。ちなみに親鸞聖人は、『教行信証』・信の巻に、

 “悲しきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲(あいよく)の広海(こうかい)に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑(めいわく)して、定聚(じょうじゅ)の数に入(い)ることを喜ばず、真証のさとりに近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし、傷(いた)むべしと。”

と仰せになった悲しみとは、今申しました喜びに裏付けられた悲しみです。聖人が本当に悲しまれたのは、苦悩の私が救われていくみ仏の大悲がありながら、自力の迷信に囚(とら)われてこの大悲を見失い、また六道の迷いの世界に沈んでいく姿であります。

 それでは悲しみを支える喜びとはどんなものでしょうか?

四、み仏の眼(まなこ)の中に

 “罪の人々 み名を呼べ 我も光の うちにあり 惑(まど)いの眼(め)には 見えねども 仏(ほとけ)は常に 照らします”(信心のうた)

 私はこの歌を通して罪深い悲しみの中に温かいみ仏の光を感じて生きる、信仰の喜びを味わうのです。特に“我も光の中(うち)にあり”との“われも”の言葉に、千金の重みを感じます。即ち数知れぬ悲しい宿業の中に生きる親鸞の上にも、み仏の慈悲は無限に注がれていると共に、あなた方一人一人の上にも大悲の光は注がれているのですよ。あなたはそれに目覚める事が出来たでしょうか?折角生まれ難い人間に生まれながら、この光に目覚める事なくして一生終るならばそれは空しい人生ですよとの、親鸞聖人の声なき声を感じるのであります。

 誠に信仰の世界とは、苦悩の中にありつつ、罪深い我が身の内省を通して温かいみ仏の慈悲を心に感じて、この厳しい人生を力強く生き抜く生活といえましょう。

 私はここに思いを巡らす時、昭和46年3月、YBA(高校仏青)を卒業して東京へ就職していった植木明美さんの手紙を思い浮べるのです。昭和46年3月26日、日置駅を離れて単身東京に向かいました。私は日置駅に見送り別れる時に、向うに着いたらすぐ住所を知らせなさいね、と言って別れました。やがて列車は日置の駅を離れていきます。

 その時私の胸に、

 “春浅き 薩摩路上る 就職の
    列車の響き 遠く消えゆく” 

の歌が浮んでまいりました。数日後、

 「先生無事着きました。私の寮の住所はここであります。」

という一通の葉書が届きました。私はすぐその場で返事を書いたのです。それはこうした子ども達が故郷を離れて異郷の地に行った時に何が一番嬉しいか、それはお金よりも物よりも、故郷からの便りが一番嬉しいとわかっていたからです。やがて封書が折り返し届きました。

 「先生、鶴の様に首を長くして待っていますが誰からもなかなか便りが来ません。先生のお便りが一番先に来ました。」

と嬉しそうに書かれていました。私はこの子が慣れる迄、暇をみては便りを書きました。何回かの便りの往復の末、4月30日、一通の封書が届きました。封を切ってみると千円札が出てきたのです。不信に思いながら便りを読んでみると、

 「先生、生まれて初めてお給料を頂きました。この手でこの体で働いて頂いた給料袋を手にした時には、思わず手が震え涙が出ました。けれども今は研修期間中ですから必要経費を除いたらそう多くは残りません。私の頂いた初給料の中からわずかですが明信寺の仏様にお供えください。」

私は何か胸が熱くなるのを覚え、お夕事の時に仏前に供えてお勤め致しました。次を読んでみると、

 「先生、現実の社会は私にはあまりにも厳しゅうございます。家に居る時は私は家族に甘え過ぎていました。仕事が難しい、先輩がどんどんやっていくのに私にはなかなか出来ません。こんな事が何故できないかと歯がゆくなって、一人涙する事があります。

 でも先生、仕事の難しさよりももっともっと難しいのは人間関係です。私はどうしたらよいかわからず悲しくなって涙する事があります。その時私の手はいつしか合わさっています。

 そうして遠く故郷の明信寺を思い、あの本堂で先生からお聞きした言葉がよみ返ってきます。『どんな悲しい時も寂しい時も一人ではないのよ。全てわかっていて下さるみ仏様と一緒なのよ』このなつかしい言葉が胸に浮んできた時に、暗い悲しい気持ちはだんだん和らいでまいります。先生御安心下さい。どんなに辛くても私は歯をくいしばって頑張ります。そうしてこの課になくてはならない人になります。」

と書かれてありました。私は、

 「そうよ、人生は厳しいのよ。どんなに厳しくともあなた自身の足でしっかり踏みしめ、あなた自身の力で生き抜いてゆくのよ。」

と口ずさみました。そうしてその旨をまた、返事に書きました。

 誠に宗教はただ机上の空論ではありません。厳しい宿業をかかえながら生き抜かねばならない人生、これが私の生き様なのです。だからこそ聞法を通して真実のみ教えを聞き開き、み教えに支えられつつ明るく生き抜きましょう。