第九章 無駄なき人生

先生、お念仏を通してみる人生には無駄は一つもありませんね。

一、涙に曇る人生も

 これは門徒の中で、20数年続いている柿の谷正信偈会(地域話合い法座会)で、最近主人を亡くした軸屋ユキエさんの言葉であります。私は、

 「それはそうですね。あなたがそう思われた事について、よかったら詳しく話してくれませんか?」

と言った時に、

 「主人に別れて初めて、主人の大きさが解りました。今迄厳しい世間の荒風は、主人の身体で受け止めて直接私には当たりませんでした。けれども今は容赦無くまともに吹きつけます。それも道理のある事であれば、どんなに厳しくても仕方がないと諦めて納得できますが、世間の荒風は道理に合わないものが殆んどです。

 この間も或る事で非常に残念な思いをしました。その時えんどう豆畑の草を取っていました。手は草をむしりながら、心はそこに行かず煮えくり返る様でした。女一人だと思い見くびられた、と思ったらくやしいやら悲しいやら・・・・その時思わず私の口からお念仏がこぼれました。そのお念仏でハッと気付きました。この煮えくり返る様なくやしい胸の中、誰知らなくても大悲の親様が・・・。

 と思う時、お念仏はとめどなく口をついて出ました。その御念仏の中にだんだんと心は静まって、親様の暖かい御慈悲をひとりしみじみ味わう事でした。夕方、心はやわらぎ、お念仏と共に我家に帰りました。

 仏様にお灯明をあげお礼して床に就きましたが、今日の出来事が思い出されて来て、あんな事があればこそ忘れ勝ちな親様のお慈悲が味わえるかと思った時に、お念仏を通して見る人生には、無駄は一つもないなあ、と思いました。」

私は、すばらしい言葉だと感銘深く聞く事でした。

 利井鮮妙(かがいせんみょう)和上に次の様な歌があります。

 称うれば罪も障りも春の雪の
 降りつつ消ゆる心地こそすれ

寒い大寒の間に降った雪は、大地が冷えていますから後から後から積もりますが、やがて冬の帷(とばり)も開けて春の訪れと共に温かさが大地に回ってくると、其処に降った雪は跡形も無く溶けて行きます。私達の胸に温かいみ仏のお慈悲が差し込む時、人生の色んな事で一時は怒りの炎が燃え。また愚痴の涙が流れても、やがてお念仏の中に解消されて懺悔の思い、感謝の心に変っていきます。またその苦しみを超えた所に、すがすがしいえもいわれぬ喜びが湧いて参ります。

 “なかりけり澄みて涼しき月見れば
  にごる心も燃ゆる思いも”

誠にお念仏は、涙に曇る人の世に、清らかな光となって注ぎ、私を導いて下さるのであります。

二、大悲を仰ぐ感謝の声

 今日、何も力にならない又役に立たない事を言う場合に空(から)念(ねん)仏(ぶつ)とか馬の耳に念仏という様な、嫌な言葉がよく使われております。仏様のみ教えを聞かない人々にはお念仏がその様にしか響かないのでしょうか?また、お寺にお参りしてお話を聞いている人の口からも、よくこんな言葉を聞きます。

 「何も知らないけれども、せいぜいお寺参りしてお念仏でも称えていれば、死んだ時に仏様が救うてくださるそうな。」

と。私はこんな言葉を聞いた時、

 「それは違うんですよ。それは親鸞聖人がお勧めくださる御念仏とは違うんですよ。あなたは一体今迄、何を聞いていたんですか?」

と言いたい様な歯痒さを感じます。

 けれども一歩振り返って考えた時これもまた止むを得ない事だ、とも思い、そこに教えを教えの通りに説く事も、また素直に聞く事も、なかなかむつかしい事と感じます。光が水を通る時に必ず屈折します。それと同じ様に私達は、今迄の経験とか知識に合わせて教えを理解しようとします。これを得手(えて)に法を聞くというのです。つまり自分の都合のいい様な受け取り方をします。

 蓮如上人が或る時、5人のお弟子にお話をされてその受け取った所を聞き正してみられたら、3人迄誤った聞き方をしていた、という事がみえております。こんな事を思う時に、御法義を正しく聞く事のむつかしさをつくづく感じます。蓮如上人は寄り合い談合の場をもうけて、「ものを言え、ものを言わぬは悪し。」と言って、話し合いを勧められました。

 浄土真宗の聞法とは、聞き、話し合い、確める事だと思います。

 受け取り方はどうあれ、ここで私達がはっきりしておかねばならない事は、お念仏は空念仏とか、馬の耳に念仏と言われる様な、私の生活と全く無関係な物ではありません。

 また、救われる為に称える呪文(じゅもん)でもなく、利益(りやく)を求める祈りの言葉でもありません。まことにお念仏は、大悲に目覚めて救われた喜びの声であります。この事は大谷光照前門主様の御消息にはっきりお諭しになっています。

 “おもうに宗祖聖人のお念仏は、如来の大悲を仰ぐ感謝の声であります”

と。この感謝の声に励まされて生き行く人生、それが念仏の生活であります。

三、人の世の障りを超えて

 み仏の慈悲に目覚め、支えられて生き行く念仏の生活とはどんな生活でしょうか?親鸞聖人は、

“念仏者は無碍(むげ)の一道なり”(『歎異鈔』)

と仰せになっておられます。それは念仏を喜ぶ人々の生活は、何物にも妨げられない明るい生活という事であります。無碍(むげ)という言葉は仏教では大変大切な言葉であって、それは仏の覚りの風光を現わす言葉であり、また覚りを身につけられた仏様の救いの徳を現わす言葉であります。

 “衆生有碍(うげ)の証りにて、無碍の仏智をうたがへば”

とか、

 “尽十方無碍光如来”

と聖人は仰せになっておられます。仏のお証りの全体が私の上に働いて、私の生活が無碍の生活、即ち何物にもささえられない明るい生活と展開されていくのであります。この事を今、念仏者は無碍の一道と讃えられたのであります。無碍の一道を行く念仏者の生き方を甲斐和里(かいわりこ)先生は、次の歌に鮮かにうたいあげておられます。

 “岩もあり木の根もあれどさらさらと
   たださらさらと水の流るる”

谷川のせせらぎが大海に注ぐ迄には、色々な事があるでしょう。或時は木の根が流れを遮り,大きな岩がそのせせらぎを塞(せ)き止める事もあるでしょう。しかし谷のせせらぎは木の根があれば木の根の下を潜り、岩があれば岩をめぐってたださらさらと流れて行きます。

 私はこの歌をじっとかみしめる時に、そこにこだわりを離れた生活、争いのない生き方、そんな物を感じ更に中国の言葉で、

 “晴耕雨読”

という言葉を思い浮べます。晴れた日には外で耕し、雨の日は家で聖賢の書を読む。即ち照っても良し降っても良し、という心境。以上の三つが、こだわりを離れた明るい無碍の一道を行く生活と言えるでしょう。これがお念仏に支えられた生き方であります。

四、問題を超えて

“山のあなたの空遠く
  「幸い」住むと人の言う
  噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
  涙さしぐみ帰りきぬ
  山のあなたになほ遠く
  「幸い」住むと人の言う”(カール・ブッセ)

前にも述べました様に私達が求めているものは幸せであります。しかし人生にはその幸せを妨げる色んな問題が起って来ます。そうした時私達は、こんな事さえなかったなら、こんな問題さえ起こらなかったならと思うでしょう。しかしこんな風に考えていては何時までたっても幸せをつかむ事は出来ません。何故ならば人生とは、問題の連続であるからです。勿論私達の生活の上には、なるべく無用の摩擦を避ける様に心を配り又、問題が起きた時には円満に解決する様に努めなければなりません。しかしそれだけでは済まされないのが人生であります。

 “幾山河こえさりゆかばさみしさの
  果てなん国ぞ、今日も旅行く”

と、詩人若山牧水はうたっています。果てしなく問題をかかえて生きているのが、私達の本当の姿ではないでしょうか?

 そこに今一つ見落してならない事は、起こって来る色々の問題よりもその問題に振り回されている私の心の方に問題があるという事です。たとえどんな大きな問題が起こっても、それをさらりと受け流していく心が出来ておれば、一時は苦しみ悩んでもそれはやがて解消されて行くでしょう。

 起こり来る問題をさらりと受け流して振り回されない生き方、これを無碍の人生とも、無碍の一道とも言われるのであります。念仏の人生とは、この何物にも妨げられない生き方であります。

 ここで、この事をよく理解して頂く為に、私の貧しい経験を述べてみたいと思います。

 昭和48年秋の頃かと思います。門徒の法事に参りました。おつとめが終り法話も済んでお斎(とき)の席に着いた時に、隣に座った方で初めて逢う方ですが3月まで教職に居られた方であります。その方が、

「先生は目が不自由なんですか?」
「私は昨年11月、両眼手術して非常に視力が乏しいのです。」
「そうですか。先程から見ていましたが、足元が大変おぼつかなく思いました。大変でしょう。それは信仰の力で何とかなりませんか。」

と言われました。この人の気持ちは、そのはっきりしない目が、神仏の力ではっきりする事が出来ないものでしょうか、という事なんでしょう。宗教の価値をこの様に考えている人が非常に多いのではないでしょうか。その時私は、

「ええお陰でもう何とかなっているんですよ。」

と答えました。すると怪訝(けげん)そうな様子をされたので、私は、

「あなたにお尋ねしますが、あなたとこうして話している時に私から、何か暗いさみしい蔭(かげ)を感じられましたか?」
と問うと、
「いや、それは全々感じません。」
「それならもう何とかなっているんでしょう。目が不自由だから、困らないと言えばうそになります。目が不自由よりよく見えた方がはるかに良いのですから。

 私は時々思うんです。もし目が普通であれば車の免許を取り、よそのお寺で新しい教化をしておられたらそれを見せて貰って我が寺に取り込み、教化をすすめたいと思います。また、一人でも御法義を聞きたいと言う人があればそこに尋ねて行き、膝を交えてお話をしたい気持ちが何時も働いていますが、今はそれが出来ません。いくら我が子でも、人を使う場合には遠慮も気がねもあります。

 しかし私はふと目が見えた時と、今とどちらが幸せかと思う事があります。そんな時、今の方が幸せじゃないかと思うのです。それは不自由な身になった時に門徒の一人一人の暖かい心が、又友人のやさしい心遣いが、しみじみ感じられるからです。そんな事を思った時に目の不自由があまり気になりません。だから、もう何とかなっているんですよ。」

と、言いました。そうすると

「それが宗教の力でしょうか?」
「多分そうかもね。」

と話した事で有りますが、無碍の人生お念仏の生活とは、温かいみ仏の慈悲に支えられて、起こってくる色んな問題に振り回されない生活。たとえ一時振り回されてもやがて原点に帰る生活であります。それが念仏に支えられた生活であり、良きにつけ悪しきにつけて、そこに人生の意義を感じて行くのであります。

 従って、お念仏に支えられて生きる人生には無駄は一つもない、という事が味われます。