第十二章 光の中に

賞雅先生、あなたは親鸞聖人の教えに遇った喜びをどういう所で味わわれますか?そうですね、それは真実の心の親にめぐり遇った事でしょうね。

一、 み仏のまなこ

 これは数年前鹿児島教区の僧侶研修会の時に、講義が終わってホッとしてお茶を飲みながら雑談をしていた時の事でした。親しい友人、指宿組光栄寺住職、佐藤義文師より受けた質問です。かねて解っていると思っていてもそう改まって聞かれますと、誰しも戸惑うものであります。

 この友人の問に対して、理屈の上からは色んな答えが導き出される事でしょうが、実際の生活の上に味わっている喜びは?と自分自身に問い返した時に、やはり私には今の答えが最もふさわしい様に思えるのであります。

 平素の生活の中にも仏教のお慈悲は味わえる事でありますが、そのお慈悲が深くしみじみと味わえるのは、苦しみ悩みを通した時でしょう。それは例えていえば、山の頂上を極めた喜びにも似ているものではないでしょうか。

 私はかって、私のお寺のYBA(高校仏青)の人達と霧島登山をした事があります。彼等は若さに任せてどんどん登って行きます。私も田舎育ちでありますので、足には自身を持っておりました。なに負けるものか、と後をつけましたがやはり年齢の差はどうする事も出来ません。その途中息が苦しくなり心臓が踊り、何でこんな所について来たかと後悔しましたが、それでも歯をくいしばってやっと登り詰めた時の爽快さは、言うに言われぬものでした。

 宗教の喜びも、またこうしたものではないでしょうか。人生の苦しみ悲しみをお念仏によってジッと耐え忍んでゆく所に開かれてくる喜びの世界、それは苦しみ悩みが深ければ深い程、いよいよ深く味あわれるでしょう。その苦しみを耐え抜く心の支えが、温いみ仏の眼であります。

 私はこの事を思う時に、母の思い出が懐かしく浮んで参ります。それは小学校6年生の時でした。私は母と女学校を出たばかりの姉と姉の友達と数人連れ立って、御本山の御正忌(ごしょうき)にお参りしました。お勤めが終わって本願寺の前の旅館に帰り、夕ごはんを食べながら楽しい語らいをしていました。18、9の年頃といえば箸が転んでも木の葉が散ってもおかしいという年頃です。

何でもない事を取り上げて、無邪気に笑いさざめいている娘さん達の姿をじっと見詰めていた母が、

 「ああ人生、何の苦悩も知らない娘さん達が、やがて結婚して自分が通ってきた様ないばらの道を通るかと思えばかわいそうでなあ…」

と、思わずはらはらと膝に涙をこぼしました。やがて涙を拭きながら、

 「そんな時知っていてくださる仏様がいらしゃると思えば心強いでなあ…」

と自分に言い聞かせる様にぽっつり言った母の言葉が胸に浮かんで参ります。

二、私を支える言葉

 私達がこの人生を生きて行く上で、自分の生き方を支え、生き方を決定する様な素晴らしい言葉にめぐり逢った人は、本当に幸せと思います。それを思う時私自身、学生時分に母から又恩師から与えられた三つの言葉がありました。それが私の住職としての生き方を方向づけているのであります。

 その一つには、母が学問の途上にある私に、

 「お母さんはあんたに偉い坊さんや、立派な学者になってくれとは望まない。まじめなありがたいお坊さんなって、御縁のある人々に、真実のお念仏のおいわれを説いておくれ。」

 二つに、恩師利井興隆(かがいこうりゅう)先生から聞いた言葉であります。行信教校(ぎょうしんきょうこう)に入学して間もない頃、新鮮な気持ちで講義を受けている時でした。

 先生がお父さん(利井鮮妙(せんみょ)和上)の代理で或るお寺にお話しに行かれた時の事です。そのお寺では参詣人も少ないし、話中に煙草を吸うたり団扇(うちわ)を使ったりして御法義を聞こうとする姿勢がみえません。先生は、

 「俺はお前達に仏教の押し売りはしないぞ。お前達が救われていく事について何故俺が頭を下げて頼まねばならないか?お前達に聞く気がなければ俺は帰る。」

と言って、さっさと高座を降りて帰ってしまわれました。帰るなりおとうさんに向って、  

 「何故儂(わし)をあんな所に説教にやったか、誰もまともに聞こうとしないではないか?」

と言われたその時に、鮮妙和上が静かに、

 「興隆、親鸞聖人や蓮如上人は仏法が繁盛してお坊さんを大事にする所ばかり、選(え)っては歩かれなかったぞ。」

この言葉が若い興隆先生の胸に強く響きました。私は先生からこの話を聞いた時に深い感銘を受けて、それが今も鮮かに胸に残っています。

 三つには、恩師山本仏骨(ぶっこつ)先生から聞いたやはり利井鮮妙和上の言葉であります。鮮妙和上が隣寺の報恩講に出勤されました。おつとめ済んで若い布教師さんがお説教されている時、途中ふと気がつかれると和上は余間で端然と威儀を正し、静かにお念仏しながら聴聞しておられます。お説教は自分より偉い人が聴いておられると思うと、中々話がしにくいものであります。

 この布教師さんも途端に話が乱れて、ようやく高座から降りて来られました。そうして、

 「和上がお話を聞いて居られると話がしにくいのです。どうか聞く事はこらえて下さい。」

と言われた時、鮮妙和上は、         

 「凡夫の私が聞いていて話がしにくいですか。あなたの後には大悲の仏様が、一語一語を聞き洩らすまいと耳そば立てて、聞いておられますよ。」

 以上三つの言葉はいずれも学生時代に私が感銘を受けた言葉で、今迄幾度か教化の壁に行き当って悩んだ時にこの言葉によって新しい勇気が湧いて参りました。また、私が色々な場で御法話する時、この言葉を思い浮かべてかみしめるのであります。私の僧侶としての生き方に、今日迄もし大きな誤ちがなかったとするならば、この三つの言葉のお陰と思っています。

 更にこの言葉を通して反省させられる事は、私達は都合の良い時は仏様を持ち出し、都合の悪い時には仏様をないがしろにしてはいないかというこであります。

三、素晴しい言葉

 今を去ることおよそ一千年、朱雀(すざく)天皇の天慶5年(942)、平安朝の中頃、中将姫(ちゅうじょうひめ)で有名な大和の当麻寺の近く(奈良県北葛城郡当麻村)に素晴らしい宗教的天才児が産声をあげました。それが後に日本で初めて往生浄土の道を説いて日本浄土教の祖と仰がれた源信和尚(げんしんかしょう)であります。

 7才の時に父を失い母の手で育てられましたが13才の時に、比叡山天台宗の中)興(ちゅうこう)上人と仰がれた慈慧大師(じえだいし)良源(りょうげん)上人について出家されました。15才の時には、早くもその英才を認められて村上天皇の前で、法華八講会(ほっけはちこうえ)の御前講義をされました。

 左右両側には太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・小納言などの高位顕官の殿上人(てんじょうびと)。又、南都(奈良)北嶺(比叡)の由々(ゆゆ)しき学匠達が綺羅星(きらぼし)の如く居並ぶ中に、わずか15才の少年源信和尚は少しも臆する事なく約4時間、あらゆる経典にわたって講義を進められました。

 御進講が終わった時、寂(せき)として声も無く、今日の結果はどうであろう、と後で固唾(かたず)を飲んで聞いておられたお師匠良源上人も、その見事さに思わずハラハラと落涙されました。

 天皇もいたく感動されておほめの言葉と共に、絹一匹を賜わりました。源信和尚は今日の喜びを一刻も早く、大和のおかあさんに伝える為に使いを走らされましたが、おかあさんは喜ばれるかと思いの外、送られた絹にも手もふれず一通の手紙を添えて、そのまま送り返されました。

 「あなたをみ山に登らせたのは、偉い坊さんと言われる為ではありません。この私の救われていく道を学んでそれを、教えて頂く為でした。それが男女雑居の宮中に出入りして、名利(みょうり)を求める僧になって行くという事は何と悲しい事でしょうか。」

と厳しく訓(さと)し、

 “後の世を渡す橋とぞ思いしに
  世渡る僧となるぞ悲しき”

この歌で結ばれていました。

 源信和尚はこの母の厳しい言葉にしばしの間なりとも名利に心が傾いていた事を深く恥じて、名利という言葉を壁に張って朝夕自分を誡め、只ひたすら勉学修行に精進されました。30過ぎて既に名利の巷と化しつつある比叡の東塔西塔を逃れて、横川(よかわ)に隠遁して真実の救いを教典の中に求め求めてゆかれたのであります。

 42才の時に、悟りへの道は色々あるけれども自分の様な罪の深い愚かな者は、ただ念仏より外に道なき事を確信されるに至りました。この事を待ち詫びて居られるおかあさんに早く知らせたいと比叡の山を下りて、大和のおかあさんを訪ねられました。それは13才の時おかあさんの膝元を離れてまさに29年振りであります。

 その時おかあさんは病篤く、病床の人となっておられましたが、どんなに罪の深い者でもお念仏によってお浄土に参らさせて頂ける事を聞かされて、病める老いの手に我が子の手をしっかり握りながら、

 「あなたをみ山に送って二十数年、今こそその淋しさに耐えてきた甲斐があった。」

と喜びつつ、御念仏の中に安らかに御浄土に帰っていかれました。母の一周忌を迎えた43才の時に母を偲びながら、畢生(ひっせい)の力を傾けて書き上げられたのが有名な『往生要集』であります。

 当時中国の宋の国から留学していた周文徳によって中国にも紹介されました。一説によると、皇帝がこれを見ていたく感動されて、

 「インドに釈迦如来がお出ましになってみ法を説き給う如く今、東方日本に源信如来というみ仏が現れて、末の世の人々を導き給うか。」

と、朝夕日本に向って礼拝されたと伝えられています。

 『往生要集』は上中下三巻よりなっていますが、その要点は、六道の迷いの世界を離れて真実の浄土を願うべき事を説いて、往生の為には念仏が最も大切である、と諭されています。源信和尚自らも、愚かな浅ましい極重悪人の自覚の中にお念仏によって浄土往生を願っていかれました。

 この『往生要集』の中に、

 「われまたかの摂取(せっしゅ)のなかにあれども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦(う)むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。」

とのべておられます。この言葉こそ、源信和尚の一生を支えた言葉であると思われます。

 それは源信和尚は75才(後一条天皇の寛仁(かんにん)元年西暦1017)の6月に亡くなられましたが、その1ヵ月前5月に『観心略要集(かんじんりゃくようしゅう)』を書かれて、その中にも今の言葉が引用されている事によって知る事ができます。

 親鸞聖人はこの言葉に深い感銘を受けられて、『お正信偈』 と『教行信証』、信の巻に二度も引用しておられます。又この言葉の心を『高僧和讃』(源信讃)に、

 煩悩にまなこさへられて
 摂取の光明(こうみょう)みざれども
 大悲ものうきことなくて
 常にわが身をてらすなり

 と述べておられます。誠に他力信心の風光は、煩悩具足の浅ましい極重悪人の自覚の上に常に私に注ぎ給う大悲の光を仰ぎながら生きゆく生活といえましょう。

 更に私達がこの世の生活に追われ追われて、仏様、いやお念仏の事を忘れていても、大悲のみ親は少しの間も忘れ給うことなく私の上に限りない慈悲の眼を注ぎ給うのであります。私がみ仏を忘れても、み仏は私を忘れ給う事はない。この事について私には懐しい思い出があります。

四、親心は子どもの上を離れず

 昭和14年4月数え年20才の時、私は恩師遠藤先生のすすめと両親の了解の元に、茨木市戸伏(とぶし)誓源寺の留守居に入り、宗学を続ける事にしました。これは私は30才迄、宗学を真剣に勉強したいと思っていましたが何時までも両親に世話をかけるのを心苦しく思って、自分から入った道でした。

 しかし馴れない自炊生活には思わぬ苦労もありました。元気な時にはそうもありませんが、風邪をひいて頭が痛かったり熱のある時には辛い思いをしました。夕方一人食事の準備しながら、ふと思う事は私は兄弟五人、他の兄弟は両親家族揃って今頃楽しく夕食をしているだろう、何故自分丈一人でこんな所で苦労しなければならないのか、と自分で好んで入った道でありながらそんな愚痴も出ました。

 自炊しながらも時々、洗濯物を自転車の後に積んで我が家に帰って行きます。門を入ると、その足音を聞き分けて、待ちかねた様に母が障子を開けて、

 「おかえり。よく帰ったね。」

と迎えてくれました。帰り着く迄は、母に逢ったらあれも言おうこれも話そう、と胸一杯に溜まっていた色んな苦労話もこの母の温い一語がはらわたに染み込む様に響いた時に、跡形も無く消えて何も言う事が無くなりました。私はその時、深く考えずにお母さんていいものだなあ、位にしか思いませんでした。

 あけて昭和15年1月、母が病気をし、実家の田舎では医者の便利が悪い為に、父が駐在布教使をしていた高槻市富田(とんだ)の本照寺(当時住職泉雄尊正師)に静養に来ました。ここは学校に行く途中でしたから、15分早く出て、行き帰りには母のもとに寄って、

 「おかあさん気分はどうですか?」

と一言、言葉を掛ける様にしようと決心しました。これが今迄御世話になるばかりで何一つ親孝行らしい事が出来なかった私のせめてもの親孝行の真似事と思って一日もかかさず続けました。

 昭和15年2月11日。当時の日本は紀元2,600年で、国をあげて湧き立っていました。学校で式典がある帰途、母の元に立ち寄った所、

 「病気の原因がはっきりしないので今日は内科と外科のお医者さん二人で診断される。もうすぐ来られるからお前もその結果を聞いてから帰ったらどうか。」

と父に言われたので暫(しばら)く待っていました。

 やがてお医者さんが見えて、診断の結果、乳癌ですでに手遅れになっている。手術しても決して治る見込みはない、このままだと後1ヵ月か1ヵ月半の命、同じ助からない命であるならこのままで往生を待たれたら良いでしょうとの事。この事を2人のお医者さんが別室で、本人に言っていいかどうかを話合って居られましたが内科のお医者さんが父の碁の友達で親しかったので、

 「この方はお寺の奥さんで宗教家だから気安め言うより、むしろ本当の事を言ってあげた方がいいでしょう。」

と申されました。そこで外科のお医者さんが再び母の枕元に座り直し、

 「奥さん。お気の毒ですが、乳癌で既に手遅れになっております。手術しても治る見込みはありません。同じ治らない病であるならば、このまま往生を待たれた方が良いでしょう。」

と、はっきり死の宣告をして帰って行かれました。父も用事で出かけました。母の枕元に座ってじっと見詰めていた私に、やがて静かに、

 「いよいよお浄土に帰る時が近づいたか。」

とこの一語で、20年間の今迄の母のなつかしい色んな思い出が次々と走馬灯の様に胸に往来して、この母とあとわずか1ヶ月か1ヶ月半で別れ行かねばならないのかという悲しみが胸に迫って、ワッと泣き伏しました。その時母は、

 「泣いてはいけない。生まれた始めがあるならば死の最後はくるものよ。逢うた始めがあるならば必ず別れる時が来るものよ。おかあさんは一言あんたに言っておきたいが、兄弟5人の中であんたが一番身体がひ弱い。おかあさんさえ元気であるならば、あんたがたとえどの様な病気にかかっても、どんな事しても看病してやれるが、母亡き後は誰も看病してくれる者がないから身体丈は気をつけてくれよ。」

と死の宣告を受けながらも私の事を心配し、色々諭してくれました。やがて父が帰って来て、

 「お前も思わぬ結果を聞いて淋しいだろう、今夜はここで泊まって行け。」

とすすめます。

 「ではそうしましょう。」

と言ったら、母に、

 「あなたは帰りなさい。ここで泊まれば預っている御寺の今晩の仏様の御給仕は誰がするのですか?」

と言われ、

 「では今日は帰ります。明日又来ますから。」

と病室を出ました。道の両側には日の丸の旗がはたはたと寒風にはためいていました。

 今朝この道を来る時には,やがて3月温かくなり桜の花が咲く頃には母も元気になって、二人で桜の花を見る事が出来るであろう等と思っていたが、その3月温くなる頃に母と別れていかねばならないのだ、と思うとまた悲しみが胸にこみ上げてきました。3月半ばも過ぎていよいよ病状が悪化してきた時に、苦しい息の下から喘ぎ喘ぎ、

「折角生まれ難い人間に生まれて親子兄弟の縁につながれながら、もし御法義一つを聞き損じたら、未来は業(ごう)に引かれてバラバラになって行かねばならないぞ。もしそんな事であるならばこれ程悲しい事はないから、どうかお慈悲一つは得心のいく迄聞いて、信心喜ぶ身になっておかあさんの参っている御浄土に必ず参ってきてくれよ。」

と諭してくれました。

 そして,3月21日数え年58才でお浄土に帰っていきました。私はその後、やはり亡き子どものさみしさ悲しみは色々経験しましたが、幸いお義姉さんが大変良く出来た人で私達弟妹を時には母以上に気を配って世話してくださいました。私は割合早く母に別れましたが、良き義姉さんに恵まれて幸せだと今も感謝しております。

 昭和22年10月、縁あって大阪より鹿児島の日置、明信寺に迎えられて大阪を離れました。見送りに来られたお義姉さんに、“母亡き後思えば7年間長い間本当に御世話になりました。”と一言お礼を言おうとしても、胸が詰まって声が出ません。私は手紙に次の一首を書きそれをお姉さんに渡して別れました。

 “つくします恵みにいかで応(こた)うべき
     声のつまりて別れゆくなり”  

母に別れた後も良いお義姉さんに恵まれて今まで通りに、時々洗濯物を自転車に積んで帰りましたが、ある日門を潜って玄関に近づいた時に一抹のさみしさを感じたのです。母の生前は、私の足音を聞きつけると待ちかねた様にサッと障子を開いて、

 「今帰ったか。」

と迎えてくれたあの温い言葉を聞く事ができません。私はその晩寝ながら、生前の母の言葉がどうしてあんなにはらわたに染み込む様に温く響いたのかと、真剣に考えました。

 その時、ああそうであったか、すまなかったなあ、と気付いたのです。それは母のそばを離れて、学校の忙しさお寺の忙しさに追われて殆ど家の事も母の事も忘れた日暮しをしていました。時たま非常に苦しい時嬉しい時思い出しますがその外は、殆(ほとん)ど忘れていました。けれども母は私を膝元から離した日から、

 「今日はこんなに寒いがもしや風邪でもひいておりはしないだろうか?今日はこんなに暑いがもしや生水を飲み過ぎてお腹をこわしていないだろうか?今日はこんなに風が立つが火の元は充分気を付けていてくれるだろうか。」

と暑いにつけ寒いにつけ夜の目覚めにも、思いは私の上にとんでいた事でしょう。そうした母の思いの中に時たま私の健やかな姿が映った時、

 「ああ良かったなあ。」

という万感無量の思いが、「今帰ったか、よう帰ったなあ」という一語に凝集されて私の胸に響いたのであり、その一語が温かくはらわたに染み込み、あれも言おうこれも話そうという私の思いは、跡形もなく消えていったのであります。私は母に別れて母の言葉が聞けなくなった時に初めて、これに気付きました。親鸞聖人は、

 煩悩(ぼんのう)にまなこさへられて
 摂取の光明(こうみょう)みざれども
 大悲ものうきことなくて
 つねにわが身をてらすなり

と仰せになりました。煩悩の中に明暮れして、み仏を忘れ御念仏を忘れていても、忘れ給わぬ大悲の中に抱かれておればこそ、煩悩の合間合間にお念仏を通してお陰様よ、と明るく生きる道が恵まれるのであります。