第三章 幸せを見る目

 先生、私達は真面目に働き真面目な生活をすればそれで充分なのでしょう。その上に何故、目に見えない仏様を信じ、その教えを聞かねばならないでしょうか?

一、幸福とは

 必勝不敗、神国日本の夢も空しく敗れて、昭和20年8月15日天皇の詔勅によって終戦を迎えました。ポツダム宣言を受諾して無条件降伏をしたのです。

 国土は焦土と化し、食糧危機は日本人一千万の餓死を伝えました。そうした嵐の中にも四季は巡りて初夏を迎えた昭和21年5月の或る日、曾我照義、岡井秀男、吉田幸忠、杣木(そまき)武雄、数村保の諸君、田中一子、上野栄子さん(清話会メンバー)等数名の青年が、私を学校の寮の一室に訪ねて来ました。

 これらの青年は昭和12年より19年まで大阪府高槻市富田の本照寺別院(現住職日野照正師)で、私が日曜学校に従事していた時に通って来た子ども達です。この青年達も徴用によってそれぞれ軍需工場に働いていましたが、終戦と共に家に帰り、私が学校に帰っているのを聞いて、訪ねて来たのです。なつかしく色々話しているうちに、数村保君がふと問いかけた質問であります。

 今も私にはこの質問が頭に刻まれています。この質問は言い換えれば、私達には何故宗教が必要かと言う事でしょう。あの敗戦の混乱期、神や仏があるものかという思想が風靡していた中に、20前後の青年がこうした疑問を持つ事はやはり子どもの頃の宗教教育の賜であると思いました。それはそうとして今日、こうした疑問を持つ人々が老若男女を問わず、私達の周囲にもたくさんあるのではないでしょうか?

 今この問題について考えますと、やはり人間は皆、心の底に良心を持っているから真面目に生きたいという願いの中に生活しているといえるのではないでしょうか。その真面目に生きたいという心の底には、幸せに生きたいという願いが働いています。つまり人間の等しく願っているものは、より良き生活、より良い幸せという事でしょう。

 それでは幸せとはどんな事でしょうか?その答えはその人その人の境遇、立場に於てみな変わってきます。例えば貧しい生活、経済的な苦しみに喘(あえ)いでいる人に、

 「あなたの幸せとはどんな事でしょうか?」 

と問えば,恐らくそれは、

 「お金を持つ事ですよ。お金が無いのは首の無いのと同じで、お金さえあれば世の中は思う様に行きますから、お金を持つ事が一番の幸福です。」

と答えるでしょう。又体の弱い人に、

 「人生の幸福は何でしょうか?」

と問えばそれは、

 「健康が一番です。どんなにお金があっても、薬瓶抱えて寝ていては何もなりません。何はなくとも健康が一番ですよ。」

と答える事でしょう。或るお金持ちの婦人が長く病院で闘病生活を続けておられました。

 見舞いに来られた親しいお友達にしみじみと、

 「たとえニコヨンでもよい、今日一日を元気で働く事が出来たなら。」

と話されたそうです。更に人に使われている人達は、

 「他人を使う身になったならばどんなによいだろうか。」

と思うでしょう。この様に人々は皆幸せを追い求めながら、幸せとは何かと問えば、皆答えが違ってきます。

 ここでよく考えなければならない事は、先ず経済的な苦しみにある人がお金を持つ事ができたなら、確かに貧苦という苦しみからは開放されるでしょう。又病弱な人が健康な身体になれば、病苦という苦しみから解放されます。人に常に使われている人が、人を使う身になればそこには満足感を覚えるでしょう。

 しかしそれ等が人生の全てを解決した事にはならないのです。お金を持てば持ったでもっと欲しくなり、新しい色々な苦しみが生まれ、健康になればなったで、又形を変えて色んな悩みが次々と起こってきます。人を使う身になれば使う身で又心配が出てきます。この事実を私達は見落としてはなりません。

二、幸福の素材と豊かな心

 ここまで考えてきた時に、はっきり言える事は私達の生活には経済的な安定、或いは健康、又名誉という事も欠く事の出来ない条件ではありますが、それがそのまま幸福ではなくて幸福の素材であるということです。お金を持つ事がそのまま幸福であるならば、人生は簡単なのです。何とかしてお金さえ持てば、みんな幸せになれますから。そうではなくてそれ等の物は幸福の素材であって、その材料を自由自在に使いこなして本当の幸せを築き上げるかどうかは、一人一人の心にかかっています。

 例えば如何においしいごちそうを作ろうと思って、お金に飽かして色々高い材料を集めても、料理する人の腕が鈍っていたならば、おいしい御馳走を作る事はできません。たとえ野菜等で材料は粗末であっても、料理する人の腕が良かったら、おいしい精進料理も出来るでしょう。昔からよく言われますが、心の出来ていない人がお金を持てば堕落する、心の出来ていない人が貧乏すれば泥棒を働く、とはこの辺の事を伝えているのです。

 故に私達は経済的な安定につとめ、又常に健康に留意しながら、心を豊かに育てて行く事を忘れてはなりません。心を豊かに育てるとは、肉体に栄養を取る様に、心にも栄養を取る事です。その心の栄養とはつまり宗教、仏様の教えです。私達は聞法を通して仏様のみ教えに触れる事によって、心が豊かに育てられて行くのです。

 “生かされて、今日も恵みの旅を行く”

 豊かな心とは、生かされて生きる自分の姿に目覚める事でしょう。一生懸命つとめ努力しながらなお,お陰様と御恩を仰いでいくのです。それはそのまま、幸せを感ずる心ともいえましょう。

三、まことの幸せとは

 数年前、私はこんな記事を読んだ事があります。それはハワイで世界哲学者学会が開かれた時、幸福についてのシンポジューム(討論)が行われました。その時米国の一牧師が、

 「幸せとは不幸の原因を取除く所にある。」

と主張しました。それに対してインドの大学の某博士が、

 「幸せとは幸せを感ずる心の眼が開ける所にある。」

と申されました。私はこの時、合理的に物を考えていく欧米の思想と、直感的に物事を把握していく東洋思想との相違を感じました。この思想は、どちらも間違ってはおりません。

 キリスト教の人達が、世界の恵まれない人々の為に奉仕をして、社会福祉の先駆けとなって働かれるのは、こうした思想によるのでしょう。私達も敬意をもって見習って行かねばならないと思います。

 しかし人間はパンだけでは生きられない面を持っています。どんなに社会福祉が充実されても、感謝の心の眼が開かれなかったら幸福を感ずる事はできないでしょう。それは人間の欲望が、限りなく増長していくからです。幸福とは幸福を感ずる心の眼が開かれる所にある、という事は否定する事のできない真理です。

 私はかって恩師利井先生からこんなお話を聞いた事があります。先生が或るお寺にお話しに行かれた時に、一人のお金持ちの婦人から、夕御飯の招待を受けられましたが、帰って来られて「あの家は御免だ。もう二度と行かない」と、思われたそうです。それはその奥さんが、始めから不平と愚痴ばかりであったからです。

 私達も時々経験する事ですが、人に逢った時始めから終りまで、人の悪口と不平愚痴を聞かされると、始めは興味を持って聞いていても、終いには嫌な気持ちになります。その反対に、

 「先生私は幸せです。子どもや孫達が、皆やさしく大事にしてくれて。」

という感謝の声を聞くと、人間の心は連鎖反応を起して、ほのぼのと温かい気持ちになります。

 食事の時にお手伝いさんが御給仕に出られたので、

 「ここの奥さん、少し不平愚痴が多すぎるね。」

と言われたら、

 「先生、そうなんですよ。私ここに来て、まだ一度もほめられた事はありません。叱られるばっかし。」

と言って、こんな話をされたそうです。御飯が少しかたいと、

 「あんた、今日はオコワの伯父さんか。」

少し軟かく炊くと、

 「今日はお粥の姉さんか。」

と嫌味を言われます。そこで苦労して、かたくも軟かくもない、ちょうど頃合いの御飯を炊かれました。この御飯なら、「あんた今日は良い御飯が出来たね。とほめて貰える。」かと思って持って行ったらさすが、その時は何も言わずに食べておられる。何時も小言を言われるからこちらも一言、言ってみたい。

 「奥さん、今日の御飯の御加減如何でしょうか。」

と問うたら、むつかしい顔して、

 「あんたこんな良い御飯が出来るなら、何故毎日炊かないの?」

と叱られました。私はこの話を聞いて、

 「なる程ね。人間は幸せを感ずる心の眼が開かれなかったら、幸せのど真中にいても不平と愚痴で空しく過さねばならない。」

と、しみじみ感じました。まことに幸せとは幸せを感ずる心の眼の開かれる所にあると言う事を、私達は忘れてはなりません。