第十八章 信仰を求めて

 先生、何ぼ聞いても聞いてもお浄土に参れるという安心の信心がいただけません。どうしたら信心がいただけるのでしょうか。

一、信心こそ往生の正因

 真剣に道を求め、まじめに御法義を求めようとする人々には、誰しも突き当る難関ではないでしょうか。今迄仏法に関心の薄かった人が、子どもを亡くし親に別れて人生無常の姿に目覚めて真宗の教えの前に立った時に、聞けば聞くほど不安がつのり、これで本当に救われるという確信を持つ事ができません。そこに起ってくるのが今の言葉であります。

 真宗のみ教えは、この迷いの世界を離れて浄土に往生するのは信心の浅い深いによるのでなく、あるか無いかによるのである事は言う迄もありません。信心正因は浄土真宗の動かす事のできない常教であります。『お正信偈』に、

 “生死輪転(しょうじりんでん)の家に還来(げんらい)することは
 決するに疑情(ぎじょう)を以って所止(しょし)と為す
 速かに寂静無為(じゃくじょうむい)の楽(みやこ)に入ることは
 必ず信心を以って能入(のうにゅう)と為す。”

即ち私達が迷いの世界を、生まれては死に、死んでは生まれつつ、迷い続けていく事は罪の深い浅いが原因ではなくて、み仏の救うと呼びかけて下さる本願の呼び声を疑うからである。迷いの世界を離れて速かに真実の悟りの浄土に生まれ行く事は、必ず信心が必要であると述べられています。また蓮如上人は『御文章』に、

 “聖人一流の御勧化(ごかんけ)のおもむきは,信心をもって本とせられ候。”

と明瞭にさとされました。この教えの前に立った時に道を求めるのに真剣であればある程、いかにして信心をいただくか、いかにして信心を決定(けつじょう)するかという事が大きな問題となって私の前に立ちはだかってくるのであります。

 私はこの事を聞かされ信心決定しようと焦っている時に、ふとこんな疑問を持った事があります。

 仏様が本当に大きなお慈悲の方であれば、信心をいただこうがいただくまいが全ての人を皆お浄土に参らせてくださればいいではないか、それに信心いただいた者はお浄土に参れる、いただかない者は地獄に落ちていくのであれば、本当の大慈大悲の仏様という事はできないであろう。

 キリスト教の神様は罪を懺悔し祈った者は天国に生まれさす。そうでない者は地獄に落とすと言われるのと同じではないか、こんな不信を持ったのであります。

 これについて私達は本当の救いとはどんな事かという事をよく理解しなければなりません。それを思う時に私は学生時代に、恩師山本仏骨(やまもとぶっこつ)先生から聞いた浦倍寛充(うらべかんじゅう)師の言葉を思い浮かべます。

 慈悲深い人が田の道を歩いていました。臭い泥田の中でカエルがガアガア鳴いています。それを見て可哀そうに、お前はそんな汚ない臭い泥田の中で鳴いているか、よしよし助けてやるぞとカエルをつかみ、綺麗な座敷の絹座布団の上にすわらせてもカエルは救われたとは言えません。目を離せば、またもとの臭い泥田の中に飛んでいく事でしょう。

 これはカエルは泥田の中でなければ生きられない業(ごう)を持っているからです。カエルを本当に救おうとするならば、カエルの上に人間に生まれる業因を与えてカエルの果報が終り、このカエルが人間に生まれ変わった時に、初めて救われたという事ができるでしょう。

 信心をいただなくても、仏とも法とも知らない人々でも皆お浄土に参らせるという事は、丁度カエルを綺麗な絹座ブトンに座らせる様なものです。これでは人間の業苦(ごうく)から救われたとはいえません。人間の本当の業苦の救いとは、今私が聞法を通し本願を信じ念仏する身となる、即ち仏になるべき業因をいただいて迷いの業による人間の果報が終わって命終った時、いただいた仏因(仏になるべき業因)が華開いて、浄土に生まれ仏となった時に初めて苦悩の私が救われたという事ができるのであります。その仏になるべき業因を領受した姿が信心であります。

 だから浄土真宗では他の宗教のように信心するとは決して申しません。御信心をいただくと申すのであります。これが自力の仏教では善根功徳が仏になる因と説かれるのに対して、浄土真宗では信心が正因と言われるのであります。

 従って熱心なまじめに道を求めようとする人々が古(いにしえ)えからいかに信心をいただくか、いかに信心決定するかと悩み苦しんで来られたのであります。

二、求道の悩み

 第一節に述べました様に古来浄土真宗では多くの人々が信心を求め求めて悩み続けて来たのであります。この書物を手にする方々の中にかって信仰を求めて悩んだ方々はないでしょうか。いや今現に悩んでいる人々はないでしょうか。

 私はこの事を思う時に私のささやかな経験をお話ししたいと思います。それが皆様方の求道の上に何らかの手がかりとなれば幸いと思います。

 私は、大正9年(1920年)大阪府茨木市車作(くるまつくり)の法林寺の三男として生を受けました。お寺に生まれお寺で育った私は小さい間から仏様のお話しを聞かされ、いつしかお話しを聞くのが好きになりました。また信仰の厚い母はやさしい反面厳しい一面があって、聞法についてはまことに厳格でありました。

 私のお寺では4月に永代経、10月に報恩講が3日間づつ勤まります。この3日間参詣人を目当てに門前に店が出るのです。それが楽しみで学校が終ると一目散に走って帰りカバンを置くと、すぐ店に飛んで出ようとしました。すると母が、

 「今、本堂でお説教があるからお詣りしなさい。」

と言って外に出る事を許しませんでした。私は仕方なしに本堂に座り、早く済まないかと足をもじもじしながら聞いていました。こうしてお説教を聞いているうちに子どもの私の心に、信心いただいた者が楽しいお浄土に生まれる事が出来る。もし信心いただく事が出来なければ、恐ろしい地獄に落ちると受け取りました。

 子ども心にも地獄は恐ろしい。お浄土に生まれたい。そんな気持ちが強く動きそれには信心がいる、どうして信心をいただこうかと子ども心に苦しみました。信心いただいた印には綺麗な心になり有難い心が湧いてくる。そこでお説教を聞いて有難い心になろうなろうと努めましたが、それは私には不可能な事であり悩みは続きました。

 小学校4年の時に、日曜学校が開かれました。これは仏教婦人会の方々の努力の賜物であったのですが、日曜学校のある日、先生が、

 「皆さん、私達が命終ったら、みんなみ仏様にいだかれて、楽しい楽しいみ仏のお国に生まれて行くのですよ。」 

と言われました。何も聞いていない時であったから、そうかなあ、と素直に受けとめる事ができたでしょうが、今迄お説教を聞いていた私は、

 「嘘つけ、そんなうまい話があるものか、お浄土に生まれるのには信心が必要ではないか。その信心をいただく為にこんなに苦しんでいるのに、みんな死んでこのままお浄土に生まれる、そんなうまい話があるものか!」

と強く心に反発しました。そうしてどうして信心をいただき、有難い心になろうかと思い悩んできました。

 私のお寺では熱心な、池野米吉さんという有難いお同行がおられて、お説教が済むとこの方を中心にして、御法義の話合いがなされました。私はこんなに味わっている。私はこんなに聞いている。私はここの所の疑いが解けない。同行の人々が赤裸々に自分の本音を出して話し合い確かめ合われます。信仰の上の赤裸々な本音は、信仰を求めて悩んでいた私には、通り一遍の布教使のお説教よりも心を強くひきつけました。

 けれども子どもの私にはそうした大人の中に入っていく事が恥かしい。しかもその言葉が気にかかる為に、隣の部屋であの人もそんな気持ちかそれでは私と同じではないか、あの答はどう出るだろうかと耳に手を当て襖ごしに聴いた事もありました。こうしてお説教を聴きながら時にありがたい心が起ると、これで信心いただけたと安心しても、やがてその信心は淡雪の様に消えていきます。

 私が15才の時、2里半程離れた富田町別格別院本照寺(現住職、日野照正師)の報恩講にお詣りしました。その時母が50銭銀貨をわたし、町の郵便局で30銭で電報を打って、あと20銭を小遣いにやると言われ、20銭のお金を持って本堂に座りました。その時の布教師が私の先輩で元総長の今は亡き、条(こえだ)周存師でした。 

 “弥陀たのむ人は雨夜の月なれや
 雲はれねども 西へこそ行け”

 の歌を引いて、まことに巧みに有難いお説教をされました。私は思わず有難さが胸一杯に広がりこれでいよいよ今日、信心がいただけたと思った時、嬉しさがこみ上げてきました。

 二席にわたるお説教を聞いて喜び一杯に胸ふくらませながら二里半の道を自転車で帰途に着きました。今日お詣りしてよかったな、これで信心がいただけた、もういつ死んでも大丈夫と自転車のペダルを踏んでいましたが、途中まで来た時に胸一杯の喜びが段々片隅から欠けていって、うちへ帰った時はもう何にもありませんでした。折角いただいた信心もやはり嘘であったかと思った時に、床に入っても止めどなく涙が流れました。

 学校を卒業した時に父から、  

 「お前も行信教校(ぎょうしんきょうこう)に入って仏学を勉強しないか?」

と言われた時に私は、ハイと素直に答えました。それは勉強して偉い学者や立派な坊さんになろうとは思わない。行信教校でお経の講義を聞き親鸞聖人のみ教えを聞いているうちに、いつとはなしに、このありがたくなれないしぶとい心が、いつしかありがたくなって信心がいただけるであろうの思いからでした。

 行信教校で利井興隆(かがいこうりゅう)先生、鈴木啓基(けいき)先生、遠藤秀善(しゅうぜん)先生の講義を聞きお育てを受けました。夏の専精舎の安居(あんご)(研修会)には、雲山龍珠和上、日下大痴(くさかだいち)和上、佐々木鉄城和上、小山法城和上らの有難いお話。また微に入り細にわたった鮮やかな信心のさばき。こうした名師のお話を聞いて感動しながらも私の心は悶々として晴れませんでした。

 後に六連島(むつれじま)のおかる同行が、信仰に悩み苦しんで詠んだ歌を聞いた時に、120年前のおかる同行の信仰の悩みも、かつて私が悩んだ苦しみも同じであったなあと、しみじみ感じました。

 “こうも聞かれにゃ 聞かぬがましょ
 聞かにゃ落ちるし 聞きゃ苦労
 今の苦労は 先での楽と
 気休め言えど 気がすまぬ

 すまぬ心をすましにかかりゃ
 雑(ざつ)修(しゆ)自力と捨てらるる
 捨てて出かけりゃ なお気がすまぬ

 じゃとて地獄は恐ろしい
 我が機(き) はなしちゃ あぶのてならぬ
 どうせ他力になれぬ身は”

三、両手はなして

 私は行信教校でいろいろ学びながら、信心のあかしはつきませんでした。こんなことも考えた事があります。

 お隣の浄土宗は自力の念仏だからむつかしい。浄土真宗は他力で信心一つで救われるから易(やす)いと言われるが、お前、お浄土に参る為に朝から晩までお念仏称えなさいと言われたら私は称える事ができるでしょう。けれどもお浄土参りの為に信心頂きなさいと言われても、聞いても聞いても信心が頂けない。それでは浄土宗の自力念仏の教えより他力信心の浄土真宗の方がむつかしいではないかと言う事を真剣に思った事もあります。

 私が行信教校に入って3年目の秋、利井先生のお寺(常見寺)で秋の永代経がつとまりました。寮内生はお参りしなければなりませんが通学生は自由でした。けれども私は折角の御縁だからと思って放課後残ってお参りしました。前席を教校の先輩がお話されて後席は校長の利井興隆先生でした。

 今もはっきり頭に浮びますが、大経下巻の胎化段(たいけだん)のお話をされ最後に、

 “往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし”

 これは覚如上人の『執持鈔(しゅうじしょう)』の第二条のお言葉であります。この言葉を二回繰り返えされて何の説明も加えずサッと高座を降りてしまわれました。

 私はその時ハッと胸を打たれました。待てよ今まで、私は信心頂こうありがたい心になろうと一生懸命苦労しあせってきたけれども、これは往生の一大事を、凡夫の私が計らっていたのではないかと思った時に、よしもう止めた、もう一遍白紙に返って初めから聞き直しをしようと思いました。

 それはありがたくなろうとも信心頂こうとも、そんなあせりや思いを捨て、楽な気持ちで静かに御法義を聞いてきました。そこに『歎異鈔』第九章にお諭しになっている様に、

 “仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。”

大悲のみ仏はどうにもなれない私の心のどん底を見て見て見抜いたその上で救う、と呼びたもう仰せであると聞かされた時に私には、もはや何の心配も計らいも無くただ、いい親持たして頂いて幸せ者よ、と喜ばして頂くばかりです。

 こうした事に気付かして頂いた時に、利井興弘(こうぐ)先生から聞いた鮮妙和上のお話しが私の胸に素直に入りました。信心頂こうと苦しんだある同行が、鮮妙和上に苦しみを打ちあけ、教えを求めました。じっと聞いておられた鮮妙和上がやがて静かに、

 「お前は親鸞聖人や蓮如上人の参られたお浄土に参りたいか。」

と、問われました。同行は

 「そうです。参りたいなればこそ,今迄信心頂こうと苦労してきたのです。」

鮮妙和上は、

 「そんなら信心なしで参れや。」

とそこで同行は、

 「信心なしでお参り出来るのでしょうか。」  

とたずねました。鮮妙和上は、

 「親様が何も彼も知り尽くした上でそのまま来いとおしゃるから、親様にそのままをお任せせいや。」

と言われた時に、同行が、

 「ありがとうございます。あゝ、このままのお救いだったんですネ。」

と、思わずお念仏を称えた時に鮮妙和上が、

 「ソレ、その姿が信心よ。」

と、言われたのであります。私は鮮妙和上のあざやかな説きぶりに心打たれると同時に、他力信心はまことに易行の道であり、広々とした心明るい道である事をしみじみ味わうのであります。この境地を、お軽同行が、

 “自力さらばとひまをやり、我が胸とは手たたきで、たったひと声聞いてみりゃ、その一声が千人力。なにもいわぬがこっちの値打ち、四の五の言うたは昔の事よ、そのまま来いのお呼び声、いかなお軽も頭下がる、連れて行こうぞ連れられましょうぞ、往生は投げた!投げた。”

と詠んでいますが、まことに他力信心は凡夫の計い離れて、即ち両手離して、ほれぼれと本願を仰ぐ世界であります。