輝くいのち/賞雅哲然 目次
第六章 お寺はなぜ必要でしょう
信仰しなくても立派に生活している人が多い。別にお寺にお参りしなくても良いのではないか?
一、質問の気持ち
昭和52年2月10日頃と思います。法務を済ませて昼過ぎ帰って来たら、事務の女の子が、
「先生、先程本願寺から電話がありましたが、今留守だと言いましたらでは、一時頃にまたかけると言われました。」
との事、私は何の件かと不審に思って待っていますと本願寺からの用件は、本願寺新報掲載のために、右の問題について解答を書いてほしいとの事。丁度門徒の報恩講中でもあり、又本堂再建中なのでと一応お断りしましたが、たっての要望なので平素の私の考えをまとめてみる事にしました。
まずこうした質問は、よく耳にする事であります。その気持ちを尋ねると二つに分かれると思います。一つは頭から宗教を否定する思いから出た言葉であります。即ちお寺参りしなくても立派に生活ができる。信仰など必要でない、という考え。
二つには宗教やお寺について好意的で信仰の必要は感じながらも何処かに、この問題にひっかかっている所から出る質問。
今日、連続研修の場とか、また寺院の話し合い法座の場で出されるのは、後の方の気持ちからだと思います。何れにしても信仰について基本的な問題でありますから、私ははっきりした理解を持つ事が大切だと思います。そこで質問が出るもとを考えてみますと三つある様に思います。
一つはお寺にかねて参っている人と参っていない人を比べてみても、日常の生活の上ではそう大した変り目が見えないという事。
二つには実際問題として、経済的な安定があって社会的なマナーさえ心得ておれば、今日の生活にそう支障が無いという事。
三つには人間は良心的な正しい生活をすればそれで充分で、その上宗教に頼ろうとする者は、普通以下の弱い人間である。
以上の三つの点が、こうした質問の起こる理由と思われます。
二、心の乱れ
私は、この三つの問題を思う時に、かって学生時代に恩師遠藤先生から聞いたお話しが頭に浮かんで参ります。
それは孔子が弟子を連れて諸国を教えを説いて回られました。まだ孔子の偉さが皆にわかっていなかったので、誰ももてなしする者もなくてその為に孔子は弟子を連れて泊まる宿も無く、食べるに食も無く、大変困られました。その時、子路というお弟子がこんな事を問いました。
「君子も窮するや。」
と。その時孔子は、
「君子も窮す。君子は窮して乱れず。小人は窮して乱る。」
と答えられました。どんな立派な君子でも、時には困窮する事もある。しかしかねて教えを聞いて身に付けている君子は、どんなに困窮しても決して心の調子を乱すような事はない。しかし教えを聞かず、身につけていない小人は、困難にあうとすぐに心の調子を乱してしまう。という事であります。
これはそのまま信仰の上にも当てはまります。かねてお寺にお参りし、み教えをよく聴聞している人とそうでない人とは、平素事の無い時にはそう大きな違い目はありません。だから宗教は、あっても良し、無くても良し、という誤った考えになり易いのです。
けれども一度思わぬつまずきに会うと、み教えを聞いている人は心の調子を乱す事はありませんが、み教えを聞いていない人達は,すぐ心の調子を乱してしまいます。その心の調子を乱すという事について、次の三つが考えられます。
一つは自暴自棄になる。
二つは自殺に走る。
三つには迷信に迷う。
という事です。人間は強そうに見えても実は弱い者であります。まじめに生きようと努めている人でも、思わぬ不幸に度(たび)々(たび)あうと、
「こんなに真面目にやっていてもつまらない。もうどうでもなれ。」
と、やけを起こすか、また生きる希望を失って自殺に走るか、それともつまらない迷信に惑わされていよいよ不幸の道を辿るかであります。よく世間で、
「神や仏があるものか。自分は自分の力で生きていくのだ!」
と、強そうな事を言っている人があります。あんな事を言っているから本当に強いのかな、と思って見ていると、ちょっとのつまづき・不幸にあうと色んな迷信に走ってつまらぬ事に迷うている人がよくあります。私はそんな時に、本当に人間は弱い者だと、つくづく感じるのです。そうした弱い私であればこそ、そこにどんなつまづき不幸にあっても惑わされない、しっかりした心の支えが必要なのです。事に遭ってからではもう遅いのです。
蓮如上人が、
「仏法は平生の間に聞け、若い時にたしなめよ」
とお諭しになったのもこの為です。よく、
“おぼれるものは藁をもつかむ”
と言いますが、この事について、或は人間は所詮弱いのだから藁をもつかむような気持ちで迷信に頼るのも仕方が無いという風に思う人もあります。
ここで私達が冷静に良く考えてみなければなりません。それは水に溺れる者が苦しさの余りどんなに藁をつかんでも、藁をもろともに溺れて行かなければならないという事であります。正しい宗教とは、人生の色んな不幸災難を神仏の力、又は、信心によって取り除く事ではありません。起こって来る不幸災難を避けるのではなく、まともに受け止めて、それを超えて行く力であります。即ちそれが仏様の教え、お念仏であります。
従ってお念仏とはこの悩み多い人生を、力強く生き抜く心の支えと言えましょう。
三、理性を支えるもの
こう申しますと或は人間には理性と良心がある。従って宗教による心の支えを持たなくとも人間の理性によって良し悪しをはっきりと見定めて、良心の命ずるままに正しい生活をすればそれで充分であると思っている人があります。いや現代の物質文明の中に生きている人達は、多くこの考え方に傾いているのではないでしょうか?今の人達が宗教に耳を傾けようとしないのも、そこに理由があります。
理性や良心だけで充分と思うのは、人間に対する反省、考え方が非常に甘いと言わねばなりません。なる程人間は他の動物と違って本能の他に理性、良心を持っています。だから先にも述べた様に、すばらしい人類の進歩発展を遂げましたが人間は決して完全な存在ではありません。だから、その理性良心といっても、より大きな困難にあうとそれは脆くも崩れてしまいます。この事を私達は決して見落してはなりません。
私は数年前、友人からこんなお話を聞いたことがあります。刑務所にお話しに行かれた時です。話が終わって所長室に帰って来ますと所長さんが、
「先生ここに入っている人が是非先生にお会いしたいと言っていますが会っていただけるでしょうか?」
「待ってくださいよ。私の知っている人の中でここにお世話になっている人は思いあたりませんが。ともかく、じゃ会ってみましょう」
と言って面会室に行かれました。すると35、6の髭をぼうぼうとした人が飛びつくようにして手をにぎりながら、
「先生、私の人生はこれで終わりました。」
と男泣きに泣かれるのです。しかし誰だか全然見当がつきません。刑務所の中では言ってはならない二つの禁句があるそうです。一つは、あなたは誰ですか?二つは、どうしてここに来られたのですか?という言葉です。それを心得ていましたが、つい、
「あなたは誰ですか?」
という言葉が出てしまいました。その時、
「先生、私は高校時代に先生の坊ちゃんと同じクラスで親しくしておりました。それで夏休み春休みには、よく先生のお寺に泊まりがけで遊びに行きました。」
と言われて初めて、
「ああ、あの時の方でしたか。」
と気が付きました。この人は高校を出て教員を目ざし鹿児島大学の教育学部に入学して,卒業後市内の学校に勤めて中堅教師として生徒からも父兄からも信望を集めておられました。
昔から、一寸先は闇だ、と言われております様に人生はいつ、どんな所に不幸の落とし穴が待っているかわかりません。夏の日曜日、家族を連れて奥さんの田舎に遊びに行かれました。夕方暑いので、ビールを勧められるままに口にし、酔いが冷めるのを待って家を出られました。車が市内に入った時は、もう夜半を過ぎていました。助手席の奥さんが、
「明日も学校がありますから少し急ぎましょう。」
と言われて、人通りも殆ど無いのでアクセルをグッと踏み込んだとたんに人影が前を横切り、ハッとブレーキに足をかけた時にはもう遅かったのです。確かに轢いた気配。車を止めて外に出て見ると、人が倒れていました。その時魔が差したといいましょうか、奥さんが顔を出して、
「あなた誰も見ていません。今のうちに・・・。」
と言われて思わず車に乗ってそのまま逃げてしまわれました。
翌日学校に出ても、落ち着いて授業はできません。どこでどうして分かったか二人の刑事が昼過ぎ学校に来て、この先生の車を調べたらよく洗車したはずですが、一ヶ所血痕が残っていました。それが被害者の血痕と同じだったのです。逃がれぬ証拠、悪質な轢き逃げとして逮捕され、未決囚としてここに送られて来ました。なお悪かった事は、被害者の検視の結果轢かれた後も数時間は命があったという事でした。事故の時すぐ何らかの処置をとっていたら或いは助かったかも知れないのです。
私はこの話を聞いた時に人間の弱さを思い、どんなに理性良心を誇っていてもより大きな困難の前には、脆くも崩れて行くという事を知らされました。この理性良心を支えるものが宗教なのです。言葉を換えて申しますと、宗教の支えのない理性良心は誠に脆いものであります。
丸紅のロッキード事件や、またそれに続く日商岩井とダグラスとの汚職についても、国会の証人台に立って、
「良心に従って真実を述べます。」
と宣誓しながらこれらの人達が偽証罪に問われている事を思う時、なお更その感を深くします。これ等の人達は現在の日本の財界政界にあってトップクラスの人達ばかりであります。ここに宗教を持たない人々の空しさを感じます。
勿論私達には理性良心が大切な事はいうまでもありません。大切であればこそこれをしっかり支える宗教がなくてはならないのです。どんなに高い教育を受けて知識を磨き教養を高めても、宗教の支えがなかったら、自分の欲の為に理性も良心も曇ってそれ等が悪用されるのです。西洋の哲学者が、「宗教無き教育は巧みなる悪魔を作る。」 といみじくも申しております。現代の私達には真剣に受け止め、考えなければならない言葉であります。
四、教えに支えられて
繰り返して申しますが、人間の特徴、即ち他の動物と違う所は、理性と良心を持っているという事であります。この理性良心に磨きをかけそれを支えていくのが宗教なのであります
お釈迦様が齢(よわい)80歳を迎えられて命終(みょうじゅう)が逼(せま)ってきた3ケ月前の事です。それをひそかに感じたお弟子の一人阿難尊者(あなんそんじや)が、別れを惜しんで最後の教えを乞いました。
「私は今迄世尊(お釈迦様)をこよなき師と仰ぎ、こよなき灯と慕って参りました。世尊の亡き後私達は誰を師と仰ぎ、何を灯としていけばいいのでしょうか?」
と、その時お釈迦様はおごそかに、
「自らを師とせよ。自らを灯とせよ。法を師とせよ。法を灯とせよ。」
とお説きになりました。これがお釈迦様の最後の説法と言われています。それはそのまま仏教を貫く精神ともいえましょう。このお言葉の心は、貴方の頼りになるのは貴方より外にありません。従って貴方は正しきみ教えを支えとして心豊かに生きなさい。という事であります。親鸞聖人はこのお釈迦様の精神を受けて、
“心を弘誓(ぐぜい)の仏(ふつ)地(じ)に樹(た)て
念(おもい)を難思(なんじ)の法界(ほうかい)に流す”
と仰せになりました。それは心の拠り所を仏様の御智慧の中に見出し、起こる煩悩はお慈悲の中に流して行く事で、即ち仏様の智慧と慈悲に支えられて力強く心豊かに生き抜く事であります。
私はかって先輩からこんなお話しを聞いた事があります。門徒のおばさんがお寺に来て懺悔しながらご住職に、
「この間、洗濯をしようと盥(たらい)に汚れ物を浸(つ)けて置いて、しばらくしてから洗おうと行ってみると嫁が私の洗濯物をそばの石の上に置いて、自分の色物の下着を浸(つ)けておりました。私はカッとなってその下着をつかみ上げるなり、大地に投げ捨てました。その時私の胸にこんな声が聞えてきました。
“お前それで良いのか?お前は他の者と違って長い間お育てを受けた、お念仏を喜ぶ身ではないか”その時ハッと気付いて、一度投げ捨てた下着を拾い上げ、自分のと一緒に洗濯をして棹に掛けました。腹立ちまぎれに大地へ投げ捨てたのは私の自性(じしょう)。それを拾い上げ洗濯させてくださったのは私の力じゃありません。全くお念仏さまのおかげでした。」
と、話されたそうです。ここにいろんな問題をかかえながら、お念仏に支えられて生きゆく姿を尊く感ずる事でありました。