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第八章 浄土真宗の救いは現在か未来か

 先生、この間キリスト教の牧師さんに逢い、真宗とキリスト教は良く似ていますね、と言いましたら、キリスト教は現在の救いです。真宗は未来の救いです。と言われました。

一、浄土真宗の救いについての誤解

 これも私のお寺の毎月二日の「歎異鈔」の集いの時、会員の松元静子さんから出た質問であります。私はその時、

 「その牧師さんに逢っていませんからどんな気持ちで言われたか、そこは良く解りませんがその言葉だけを聞くと牧師さんは、真宗の救いについて正しく理解されていないと思います。」

と答えて、この問題について皆と色々話し合った事であります。こうした誤解はただ牧師さんだけではなく、今日の日本人の多くが持っている誤解ではないでしょうか。否、真宗の門徒といわれる人々の中にもこうした誤解を持っている人が多い様に思われます。

 よく聞く事でありますが、若い働き盛りの人がお寺に参ると、
 「あんたもう極楽の道造りですか?」 
とひやかしたり、お寺参りを勧めると、
 「私はまだ若いから先が長いから。」
と言われるのも、真宗は死んでから先だという誤解によるのでしょう。

こうした誤解はどうして起ったのでしょうか?教え方が悪かったのかそれとも聞き方がまずかったのか、という事が考えられますが、私はそれ以前にもっと深い所に原因があると思います。

 それは徳川幕府の誤った宗教政策によるものであります。徳川幕府が天下を統一し政権を手に入れた時に、人々を指導するその原理を、仏教をさしおいて儒教に求めました。それは仏教では大変困る事があったからです。その理由は仏教は本来、徹底した平等思想に立っています。お釈迦様は、

 “人の尊い卑しいは生まれた種族や家柄によるものではない。その人の行為による。”

と説かれました。親鸞聖人は,

 “御同朋(おんどうぼう)、御同行(おんどうぎょう)”

とかしずかれて、

 “仏様の前には全ての人々が兄弟同朋である。”

と仰せになりました。こうした思想が人々の中に行き渡ると、当然封建制は崩れていきます。封建制とは上に将軍があり、その下に諸大名、武士、農民、町民等の身分制度の確立なのです。従って仏教の平等思想が、幕府にとって都合の悪い事はいうまでもありません。

 そこで人々の指導原理として五倫五常の道を説く儒教を用いました。明治政府が制定した国民道徳の基本として終戦まで神聖視されてきた教育勅語は、この儒教の精神に立っているのであります。

 幕府はその為に寺院は死者の菩提を弔う事を使命とし、僧侶はその宗教儀式を行う事をつとめとさせたのであります。その為に森林田畑を寄進して経済的な援助をしました。これは仏教を保護する様にみせかけて、実は骨抜きにしようとしたものであります。こうして約三百年の長い間、僧侶は生きた民衆の教化の場を失い、専ら死者の菩提を弔う宗教儀式につとめてきたのであります。

 その中に本願寺だけは幕府よりの十万石の寄進を断ってその代りに布教権を得て、わずかに民衆教化に努めてきました。今日浄土真宗が民衆に根を下ろしているのはその為であります。

 しかし日本の社会の大勢は、仏教は死者を弔うため…という印象を深く植えつけてしまって、それが日本人の常識の様になりました。勿論仏教は過去現在未来の三世(さんぜ)に亘っての命の問題をふまえて説かれた教えですから、亡くなった人を厳粛な仏教儀式を以って見送り、また後を弔う事は大事な勤めであり意義もありますが、死者だけに片寄ってしまっては仏教の精神に背くといわねばなりません。

二、財産持ちながら餓鬼道に

 私達はこうした誤解をすっきり払って仏教の本来の精神、親鸞聖人の正しいみ教えを頂かなければなりません。私はこの事を思う時、『蓮如上人御一代聞書』のお諭しを思いうかべるのであります。

 “蓮如上人仰(あお)せられ候。堺の日向屋(ひゅうがや)は三十万貫を持ちたれども、死にたるが仏には成り候ふまじ。大和の了(りよう)妙(みよう)は帷(かたびら)一つをも着(き)かね候へども、このたび仏に成るべきよと、仰せられ候ふよしに候ふ。”

このお言葉は有名なお言葉ですので皆さん方もよく今迄耳にされた事と思います。けれどもこのお言葉をどの様に受け取られたでしょうか?私も子どもの頃、父のお説教でよく聞かされました。

 その時私は、そうか日向屋は三十万貫の財産を持っていたからこの世は幸せであったが、仏法を聞かず信心を頂いていなかったから未来は地獄に落ちて行った。だから日向屋はこの世は幸せ未来は不幸、それに対して了妙さんはこの世は貧しくて不幸であったがお念仏を喜んでいたから未来はお浄土に生まれて仏になり幸せになる。即ち了妙さんはこの世は不幸、未来は幸せと受け止めていました。しかし果たしてそうでしょうか。

 日向屋は一代の間に三十万貫の財産を築きました。当時米一石が一貫ですから三十万石の財産となります。しかしこれだけの財産を造るには普通の事をしていてはなかなか無理です。

 日向屋はこれ程の財産を造る為に極悪非道と申しますか随分人をだまし、人を泣かして、そうした人の血と涙の犠牲によってこれ丈の財産をつくり上げたのです。だから夜寝ている時に怨みを受けている人々からの襲撃を恐れて頑丈な鉄の檻を作ってその中で休んだと言います。果たしてこんな生活が幸せと言えましょうか?私には幸せとは思われません。

 こうした姿を仏教では財産持ちながら餓鬼道に沈む有財餓鬼(うざいがき)というのであります。人間の幸せは色々考えられますが、今日一日、元気に働いて夜分床に就いた時に主人のお陰で、家内のお陰で、子どものお陰で、人様のお陰で、と恵みに生かされる我が身を感謝しながら静かに眠りに就く人が、一番の幸せではないでしょうか。

 どんなに立派な家に住みお金や物に不自由無くとも、家族や世間の人に対して不平不満の中に眠むる人に、何処に幸せがありましょうか?それで日向屋はこの世も不幸、又未来も不幸、といわなければなりません。

三、光の中に

 この日向屋に対して大和の了妙さんは、この世は不幸、未来は幸せと考えられがちですが果たしてそうでしょうか?私はこの事を思う時に、恩師山本先生より聞かされた、蓮如上人と了妙さんの出遇いの不思議さを思うのであります。

 了妙さんは奈良県の橿原神宮(かしはらじんぐう)のそばの八木という所で大きな酒造をしていました。ところが六十を過ぎて主人に死に別れ、続いて働き者の息子夫婦も亡くなりました。小さい孫を抱えて老いの身では、到底この仕事をやって行く事は出来ません。それで店も人手に渡し、生きて行く為に糸車を回しながら糸を紡いで、ようやくその日その日の生活をしていました。昔の歌に、

 “落ちぶれて袖に涙のかかる時、
   人の心の奥ぞ知らるる”

とよまれていますが、今迄随分目をかけて世話した人々も、落ちぶれた了妙さんには寄りつこうとせず、だんだん遠ざかって行きます。その為了妙さんは右を見ても不幸、左を見ても愚痴をこぼしながらの気の毒な生活でありました。

 ちょうどこの頃、蓮如上人がお弟子を連れて、この地方に布教巡回して来られました。真夏の日中の暑さに耐え兼ねられた上人がふとご覧になると一軒の荒屋(あばらや)が目につきました。上人はその前に立たれて、

 「旅の出家でございます。暑さに難渋(なんじゅう)しています。水を一杯お恵みください。」
どんなに貧しくとも井戸には水があります。了妙さんは糸車の手を止め、欠けた茶碗に水を汲み、はげたお盆に乗せて差し出しました。蓮如上人は一口飲むなり、

 「ああありがたい。この蓮如が人間に生まれたばかりにこんなにおいしく頂ける。もし餓鬼(がき)の世界に生まれていたならば、この一滴の水も炎となって喉(のど)を焼いたであろうに。」
と厚く感謝し、お礼を言って立ち去ろうとされました。

その様子を見ていた了妙さんは、(世の中には不思議な事もあればあるものよのう。私はこの井戸の水は朝夕ふんだんに使いながら、右を見ても不幸、左を見ても愚痴の生活。それに比べてあの御出家には、どうしてこの一椀の水があんなに感謝して頂けるのでしょうか?) と不審を起し、立ち去ろうとする蓮如上人の衣の袖を押さえながら、

 「もし御出家様、お尋ね申します。私はこの水を朝夕ふんだんに使いながら、毎日が不平と愚痴の生活。失礼ながららお姿見れば破れ衣に破れ袈裟。私の境遇とそう変わった様に御見受けしませんが、御出家様にはこの一椀の水が、どうしてそんなにありがたく頂けるのでしょうか?」

と。蓮如上人は静かに振り返りながら、

 「これは蓮如の力ではありません。胸に届いてくださった南無阿弥陀仏の六字のお宝のお陰です。」

「そんな結構なお宝がありますならば、このあわれな後家婆々にもおすそ分け下さい。」

と、それから上人を破れ筵(むしろ)の我が家に案内して膝を交えて、上人から諄々(じゅんじゅん)と御法話をお聞かせに預りました。

 ここに初めて了妙さんに仏縁が結ばれたのであります。蓮如上人と了妙さんのその後の交わりについて、こんな話が伝えられています。了妙さんがしばらく見えないので、蓮如上人は了妙さんの安否を気遣って訪ねられました。その時了妙さんは上人の暖かい訪問を心から喜びながら、

 「お上人様、お陰でこうして元気で糸車を回しながらお念仏を申しています。」

と言われた時に上人が、

 「了妙やそれは違うぞ。糸車を回しながらお念仏するのじゃなくて、お念仏の中に糸車を回すのよ。」

とお諭しになりました。これはお念仏は生活の一部分でなくして、御念仏の中に生活がある事を諭されたものであります。

 この対話の中に私は蓮如上人と了妙さんの間に御念仏を通した暖い心と心とのふれ合いの光景が懐しく思われます。御同朋御同行とは、ただ理屈や言葉の上だけの事ではありません。ともかく蓮如上人に巡り逢うた了妙さんのお念仏の生活は、美しい豊かなものでありました。それは了妙さんが亡き後、その住居はお念仏の仲間の人々によってお寺に建て替えられました。その御寺が今も八木の金台寺(こんたいじ)としてつゞいております。この本堂の額に、

 “見てござる。聞いてござる。知ってござる”

の言葉が書かれています。恐らくこの言葉は、了妙さんが常日頃口にされた言葉であり,了妙さんからこれを聞かれたお同行の方々は、温い感銘を受けられた事でしょう。

 しかしこの言葉は、了妙さんが人に聞かす言葉というよりも、むしろ自分自身に言い聞かされた言葉ではないでしょうか。嬉しいにつけ悲しいにつけ淋しいにつけても、温い親様のお慈悲をかみしめながら自ずと、御念仏と共に流れ出たものでしょう。すれば了妙さんは、たとい物に恵まれない貧しい生活であっても、心は豊かな生活で生活ありました。すれば了妙さんはこの世も幸せ。また未来も幸せという事ができます。

四、大悲の願船

 私はこの章で、キリスト教の牧師さん並びに今日一般の人々の誤解を解く為に、蓮如上人の『御一代聞書』にある堺の日向屋と大和の了妙さんの物語をひいて、親鸞聖人のみ教え、即ち浄土真宗の救いとは現在と未来に亘っての救いである事をお話しして参りました。

 けれどもこの二人の例話は貧富の極端なお話しでありますので、中には浄土真宗の救いとは、貧しい人の為にあるのかという印象を与えるのではないかと恐れます。従来の真宗の布教に於てややもすればそうした傾向があった事は否めません。

 しかしお念仏の救いとは貧富を問わず、人生の一番大事な生死(しょうじ)の問題を解決して、明るく生き抜く教えである事をよく理解して欲しいと思います。即ちたとえ貧しくとも、その中に生きる喜びが恵まれまた、お金や物に恵まれた人も、それに驕る事なく真実の喜びを味わいつつ生きる教えであります。

 先にも申します様に、お釈迦様は無常の世界と説かれました。従って貧富は決して固定的なものではなく、心がけ努力次第である事を忘れてはならないと思います。貧富を超えて、とこしえに生きる喜びを親鸞聖人は『教行信証』、行の巻に、

 「しかれば大悲の願船(がんせん)に乗(じよう)じて光明の広海(こうかい)に浮びぬれば、至徳(しとく)の風静かにして衆禍(しゅか)の波転ず。すなはち無明(むみょ)の暗(あん)を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃(だいはつはん)を証(しょう)す」

と、仰せられています。このお言葉の心は、私達が聞法を通して温い大悲の光明に抱かれてある事に目覚める時、お念仏の徳によって、人生の色んな悩み苦しみを喜びと転じつつ、明るく生き抜き、命終る時に無明より起る怒り腹立ちそねみ、ねたみの煩悩の炎が消えて、み仏の世界に生まれ行き尊い仏の証りを聞く、という事であります。これが浄土真宗の現在と未来の救いの光景であります。

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